名前 | 江尻慎太郎(エジリシンタロウ) |
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生年月日 | 1977年4月30日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮城県仙台市 |
プロフィール | 仙台二高では3年生春の宮城県大会で優勝、東北大会で準優勝するが甲子園出場経験はなし。
2浪後、早大へ進学し1年生秋に神宮デビューを果たす。翌春には日本代表候補選手として、ロッテ春季キャンプ、豪州合宿に参加。 2001年のドラフトにて自由獲得枠で日ハムに入団。2004年にプロ初勝利をマークし、2005年からは2年間開幕ローテーション投手となる。しかしフルシーズンを働けず、2007年からリリーフに転向。同年42試合に登板して、7勝1セーブ、防御率3.33と活躍するも終盤に右肘を故障して離脱。 トミー・ジョン手術を受けて、2008年を棒に振る。2009年、シーズン前にサイドスローに転向。同年は45試合に登板して、チームの日本シリーズ進出に貢献。 2010年シーズン当初に、トレードで横浜へ移籍。同じく中継ぎとして、54試合、65試合とフル回転。2012年、キャンプで右肩を故障し、同年オフには3対3のトレードで福岡ソフトバンクホークスへ移籍。移籍1年目は23試合登板と意地を見せるも、2014年オフ戦力外通告。 トライアウト受験するも獲得球団はなく現役引退。引退後は、関連会社のソフトバンクコマース&サービスに就職し、IT企業でセカンドキャリアをスタート。 通算成績は277試合、28勝20敗1S、53ホールド、防御率4.48、441回2/3、278奪三振。仙台二高卒、早稲田大学卒、185センチ、76キロ。右投右打 |
早稲田大学時代、頭角を現し日本ハム自由獲得枠を勝ち取る
江尻慎太郎は、宮城県仙台市に生まれ、野球少年として育ちます。その後も、仙台中央リトルリーグでプレーし、進学校でもある仙台二高へ進学しました。身体の線が細かったこともあって無名の投手でしたが、3年春の宮城県大会で優勝し、東北大会でも準優勝したことで一気に注目されます。球速はマックス137キロながら本格派の投手として、甲子園出場を目指しましたが、ベスト8止まりでした。
それでも在学中に、慶應義塾大学野球部監督に直々の勧誘を受けており、心は慶應大学進学に傾きます。推薦枠が取れなかったため一般受験し、2浪までして実に3度挑戦しましたが合格できませんでした。仕方なく合格した早稲田大学への進学を決意します。同い年の3年生藤井秀悟らと切磋琢磨しながら、1年生から試合に登板し、秋には早慶戦で無四球完封による初勝利を成し遂げます。OB小宮山悟と早稲田入学までの軌跡が似ていたため、「小宮山2世」とも呼ばれていました。2年時に右肘を故障するも、4年時に復活し1学年下の和田毅と2枚看板を形成します。4年間の通算は5勝6敗と、成績自体は特筆すべきものではありませんでしたが、防御率2.49に高い奪三振率を誇り日本ハムファイターズに自由獲得枠で入団しました。
先発ローテーション投手に抜擢されるも、フルシーズンの活躍できず
ルーキーイヤーのほとんどをファームで過ごしましたが、シーズン終盤に一軍に昇格しプロ初登板のチャンスを掴みます。しかし、リリーフ登板し先頭打者に、本塁打を打たれるという洗礼を浴びせられました。3年目の2004年、少ない登板ながら9試合に先発登板し、プロ初勝利を含む5勝1敗と頭角を現します。終盤の苦しい時期に活躍し、チームのプレーオフ進出に貢献しました。
2005年からは開幕ローテーション投手に抜擢されます。交流戦ではプロ初完封をあげるなど6勝をマークするも、中盤に調子を落とし7月以降はほとんどを二軍で過ごしました。2006年もローテーション投手の一角を担い、4月で3勝と絶好のスタートを切ります。しかし、好調は続かず同年の登板は先発10試合に終わりました。
リリーフに転向してフル回転するも、右肘を故障し手術を強いられる
2007年からの江尻慎太郎はリリーフとして再起をかけます。開幕をファームで迎えるも、5月に一軍に昇格すると、チーム3位の42試合に登板して、7勝1セーブ、防御率3.33と好成績を残しました。3連投も4度敢行するなどチームの連覇に貢献しましたが、その代償は大きく右肘を故障します。診断の結果、右肘側副靭帯再建手術(トミー・ジョン手術)が必要となり、ポストシーズンを欠場して手術に挑みました。その後は、当然長いリハビリ期間を余儀なくされます。2008年、一軍登板は1試合もなく、二軍でも7試合に登板して防御率10.80という惨憺たる成績で終わりました。
復活を期してサイドスローへ転向し、中継ぎでチームの優勝に貢献
復活を期す2009年、小林繁二軍投手コーチから勧められて、サイドスローに転向します。すると、失われた球威が戻り、さらに最速150キロまで伸ばしました。5月下旬から一軍に昇格すると、強力リリーフ陣に加わります。徐々に信頼を勝ち取り、僅差の場面でも投入されると、同年は45試合に登板して2勝1敗、12ホールド、防御率3.20と好成績を残しました。プレーオフ、さらには日本シリーズでも登板してチームの力になります。まさに、かつてサイドスローで一世を風靡した小林コーチのアドバイスが江尻慎太郎にフィットし、後の代名詞となりました。
横浜で中継ぎとしてキャリアハイの成績を残すも、再びのトレード
2010年、自身の開幕ゲームで4失点し即二軍降格となると、4月早々に横浜ベイスターズへのトレード移籍が決まります。初のセ・リーグで慣れないながらも中継ぎとして多くの試合に登板しました。途中、二軍降格を繰り返しながらも、チーム2位の54試合に登板して1勝2敗、13ホールドを記録します。しかし防御率は4.22と期待を裏切る形となりました。2011年は、開幕から安定感抜群の投球を続けます。チームが低迷する中、無失点を続け、自身初のオールスターにも監督推薦で出場しました。結局、自身のキャリアハイを大幅に更新する65試合に登板し、2勝22ホールドに防御率2.06という素晴らしい成績を残しました。
2012年、3年連続で好成績を狙いましたが、キャンプで右肩を故障すると、復帰しても不調が続き、わずか2試合の登板に終わります。さらに同年オフには3対3のトレードで福岡ソフトバンクホークスへの移籍が決まりました。移籍初年度に、一軍二軍を行き来しながらも、23試合に登板と復活のきっかけをつかみます。しかし、2014年は厚いレギュラーの壁に遮られ、3試合の登板に終わりました。
野球界から離れてIT企業でセカンドキャリアをスタート
2014年オフ、江尻慎太郎は戦力外通告を受けます。現役続行にこだわり、12球団トライアウトを受験し、往年の力を見せ付けました。しかし獲得球団はなく、現役引退が決まります。球団からはコーチ就任の打診のほか、関連会社への再就職という選択肢を準備してくれました。江尻は野球界から離れ、ソフトバンクコマース&サービスへ就職を決めます。サラリーマンとしてセカンドキャリアを進むことを決意し、営業マンへの転身を図りました。プロでマウンドに立っていた男が、ICTビジネスの最前線で精力的に活動しています。