中野友加里について
名前 | 中野友加里 |
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生年月日 | 1985年8月25日 |
国 | 日本 |
出身 | 愛知県江南市 |
プロフィール | 東海FSC所属で、元フィギュアスケート選手・伊藤みどりを育てた山田満知子コーチの指導を受ける。1999年国際フィギュアジュニアグランプリ長野大会2位。5種類のキレのあるトリプルジャンプを得意とする。150センチ、39キロ。名古屋市の椙山女学園中に在学。
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多彩なジャンプを武器にジュニアグランプリを圧巻
中野友加里がスケートを始めたのは6歳のころ。当時の愛知県にはたぐいまれな才能を持った選手が多数集まりましたが、中野はその中でもさきがけに当たる選手でした。小学生のころから中野が師事していたのは名コーチの誉れ高い山田満知子。伊藤みどりを育てたコーチの眼鏡にかなうたぐいまれな才能が中野には秘められていました。中野の最大の武器となる6種類の3回転ジャンプの起点となったのはこのコーチの指導の賜物と言えるでしょう。
中野が表舞台に登場したのは中学1年時の98-99シーズン。全日本ノービズ選手権Aクラスで優勝すると、自身初となる国際大会、トリグラフトロフィーノービズクラスでも優勝という快挙を成し遂げます。
中学2年生になった99-00シーズンからジュニアクラスになった中野はISUジュニアグランプリで初出場ながらジュニアグランプリファイナルに進出。翌00-01シーズンはジュニアグランプリで2戦続けて優勝し、全日本ジュニア選手権でも初優勝。ジュニアグランプリファイナルと世界ジュニア選手権でもそれぞれ上位に食い込む活躍を見せ、ジュニアグランプリファイナルでは自身初となるメダルとなる銅メダルを獲得します。続く01-02シーズンの世界ジュニア選手権では銀メダルを獲得。シニア転向後の活躍に期待を抱かせました。
新採点方式に苦しむことに
ジュニアクラスで活躍し続けた中野友加里は02-03シーズンからシニアクラスへ転向。手始めに中野はISUグランプリシリーズに参戦しますが、その時に組んだプログラムが話題になりました。
中野のプログラムはショートプログラムに入れた3回転アクセルを皮切りに、フリーでは単独の3回転アクセル、3回転アクセル―2回転トウループ、3回転フリップ―3回転トウループそして3回転ルッツ―3回転ループを跳ぶというかなり攻めたプログラム構成。決めれば優勝間違いなしの大技ばかりですが、一方でこんなに跳べるのか?という疑問まで生まれました。
迎えたシーズン、中野は結果で周囲の雑音を封じます。シーズン初戦の中部ブロック大会で3回転アクセルに成功したのを皮切りに、続くスケートアメリカではISU公認記録としては伊藤みどり、トーニャ・ハーディングに次いで史上3人目となる3回転アクセルを成功させました。
この勢いのまま迎えた西日本選手権と全日本選手権では3回転アクセル―2回転トウループも2大会連続で成功。さらに冬季アジア大会と四大陸選手権ではそれぞれ3位に入り、荒川静香・村主章枝とともに日本人選手で表彰台を独占しました。
多彩なジャンプで“魅せるスケート”でファンを魅了した中野ですが、翌03-04シーズンは苦難の年になりました。と言うのもこの年から採点の方式が変わり、中野のジャンプの多くは回転不足と判定されることがしばしば。スケートアメリカでは3回転アクセルが回転不足と判定されて、イマイチの成績に終わりました。かつての採点方式ならば多少のミスも派手な大技であることでカバーできたのですが、精密さを求められる新採点方式は中野のプレースタイルを変えるものとなっていきました。
成績が伸び悩んだ中野にはこの頃、ペアスケーターへの転向もささやかれ始めました。悩み続けていた中野にシーズンオフになると毎年のようにオファーが殺到。それが余計に中野を悩ませますが、自分のスケートはやはりシングルと決意した中野はこれらの誘いを一切断り、シングル一本で独り立ちすることを誓います。そして04-05シーズンから中野は愛知から大学進学のために上京。練習の拠点は横浜へと移りました。そしてこの年からコーチも刷新。佐藤信夫に師事するようになりました。
わずかの差でトリノ五輪出場を逃す
中野友加里が復権したのは05-06シーズン。トリノオリンピック出場をかけたこの時期に不死鳥のごとく甦ります。東京ブロック大会に出場した中野は国内競技会では初となる新採点方式のもとでの6種類の3回転ジャンプに成功。自身の持ち味である多彩な技を生かした中野はトリノオリンピック選手候補として注目を集めます。続く、スケートカナダでは新採点システムになってから初めて3回転アクセルを成功させて表彰台へ上ると、ケガにより欠場の太田由希奈に替わって出場したNHK杯でGPシリーズ初優勝と絶好調。そしてGPファイナルでも初出場ながら3位に入りました。
いよいよオリンピック代表も見えてきた中野ですが、そのためには全日本選手権の好成績が必須。しかし、肝心の全日本選手権は5位に終わり、トリノオリンピックの出場はならず。かつてともに表彰台に上った荒川静香や同郷の安藤美姫、浅田真央らの活躍をただ眺めているだけで終わりました。
オリンピック後、雪辱を期した四大陸選手権では銀メダルを獲得。しかし世界選手権では5位に入りましたが、得意の3回転ジャンプを封印してのものだっただけにファンからも何か物足りない結果に終わりました。
2006-2007シーズン、中野はグランプリシリーズに出場しますが、獲得ポイントで6位タイに付けたものの総得点差でファイナル進出を逃しました。前年にまさかの5位に終わった因縁の全日本選手権では初めて表彰台に上がる3位。さらに日本学生氷上競技選手権大会で3連覇を達成し、冬季アジア大会では村主章枝を逆転して初優勝を飾りました。そのため、東京で開催された世界選手権では開会式で選手宣誓を行い、競技の方でも2年連続の5位に入るなどの活躍を見せました。
07-08シーズン、中野は東京ブロック大会で3回転サルコウ―3回転ループに挑み、3回転アクセルにも成功。3回転ループは回転不足でしたが、それでも優勝して4連覇を達成。その後もスケートカナダ、ロシア杯、グランプリファイナルに出場して得意の3回転アクセルを決め続け、中野の存在を満天下に示しました。
そして、3年連続で代表に選出されて出場した世界選手権ではショートプログラム3位と好スタート。ラストの演技となったフリーで中野は3回転アクセルが回転不足になってしまいましたが、多彩な技を見せた中野はファンからスタンディングオベーションを浴びるほどの好演技を見せて、4位に入りました。
バンクーバー五輪直前に故障に泣く
世界選手権以降、中野友加里は持ち前の3回転アクセルを封印。ジャンプミスを回避するためにプログラムの再構築を図りましたが、中野はその後低迷し、08-09シーズンは四大陸選手権、世界選手権いずれの代表にも選ばれませんでした。しかし、ユニバーシアードで優勝して、シーズンオフ直前にタイトルを獲得します。
しかし、09-10シーズン、中野は練習中に肩を負傷。それが後を引く形でNHK杯では4位に留まり、GPファイナルへの出場を逃しました。バンクーバーオリンピック出場を賭けて負けられない大会が続きますが、出場のためには落とせない全日本選手権で中野は2位の鈴木明子に僅か0.17点及ばず総合3位。06年のトリノオリンピックに続いて、2大会連続で出場を逃してしまいました。
これでスケーターとして燃え尽きたか、中野はこのバンクーバーオリンピック期間中に現役引退を発表し、キャリアにピリオドを打ちました。