名前 | 藤田太陽(フジタタイヨウ) |
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生年月日 | 1979年11月1日 |
国 | 日本 |
出身 | 秋田県秋田市 |
プロフィール | 小学4年から野球を始め、中学では遊撃手。新屋高2年秋からエースとして登板。1998年川崎製鉄千葉に入社。1999年4カ国地域国際野球大会で日本代表入り。同年インターコンチネンタル杯では19回を自責点0に抑え、最優秀防御率賞を獲得。
2000年ドラフト1位で阪神に入団。185センチの長身から繰り出す140キロ台の速球とフォークが武器。2002年、プロ初勝利を完投で飾る。2003年開幕ローテーション投手としてスタートするも、6月に右肘を故障。トミー・ジョン手術のため、後半戦を棒に振り、リハビリで2004年も登板ゼロに終わる。 2009年途中に西武へトレード移籍。即、中継ぎに定着して25試合で防御率2.00と好成績を残す。2010年はキャリアハイの48試合に登板して、セットアッパーに定着。2011年から不調に陥り、2012年オフ戦力外通告。 2013年ヤクルトに移籍して中継ぎとして登板するも、2度目の戦力外通告を受け引退。引退後、飲食店で開店勉強しつつ解説者生活をスタート。2015年、富山県のクラブチーム・ロキテクノベースボールクラブで投手兼任コーチに就任。 通算成績は156試合、13勝14敗4S、24ホールド、防御率4.07、247回2/3、161奪三振。新屋高卒、右投右打、185cm、88kg |
高校生から投手を始め、社会人時代に成長して日本代表に選出
藤田太陽は、秋田県秋田市に生まれ、小学3年生までは柔道とレスリングに夢中となります。しかし、小学4年生当時、父親の熱烈な勧誘で軽い気持ちから野球を始めました。強豪チームに入ったため、中心人物にはなれず、毎日の練習が日課となります。父もそれに付き合い中学校でも野球を続けました。そして、高校進学前には私立の有力校から誘いを受けるまでに成長します。甲子園を目指すこともできましたが、最も伝統のない弱小高校を選択しました。そして2年からエースとしてチームを引っ張る存在になります。しかし、3年夏には県大会2回戦で早々に姿を消し、甲子園は夢と消えました。
その時点で素質を買われプロからの誘いもありましたが、川崎製鉄千葉に入社してさらに野球の腕を磨きます。すると投手としての才能が開花し、2年目の1999年に日本代表に選出されてインターコンチネンタルカップに出場しました。同大会で最優秀防御率賞を受賞し日本の3位入賞に貢献すると、翌年のシドニー五輪代表候補にも名を連ねます。代表合宿にも参加し、大舞台を目前にしていましたが、背中の肉離れと右肘の故障で無念の離脱となりました。
逆指名して阪神入団も、いきなりプロの洗礼を浴びて活躍できず
2000年夏のシドニー五輪出場は逃しましたが、その秋のドラフト会議では注目選手の一人となり、阪神タイガースと読売ジャイアンツとの間で争奪戦が繰り広げられます。最終的には、逆指名という形で阪神を選択し、ドラフト1位という高評価での入団が決まりました。当時の阪神は、低迷が続いており、1999年からチーム再建を野村克也監督に託します。しかし、1998年から続く連続最下位を3年に伸ばすと言う暗黒時代真っ只中でした。
当時の阪神先発陣は、藪恵壹、川尻哲郎らが中心でしたが、すでに30歳を越えていたため、藤田太陽は即戦力として大いに期待されました。そして、プロ入り後初めてのキャンプでいきなりピッチングフォームに手を加えられます。対応しきれないまま、シーズン開幕を迎えると、開幕戦でいきなり星野伸之が打ち込まれ、3回にプロ初登板の機会を得ました。しかし勢いに乗った巨人打線をとめられず、プロの洗礼を浴びせられます。2回1/3を7失点という内容で、即二軍降格となりました。同シーズンの最終戦で初先発しましたが、4回5失点で敗戦投手となります。結果、ルーキーイヤーは0勝1敗、防御率14.73という散々な成績で終えました。
初めて開幕ローテーション投手となるも、右肘故障で戦線離脱
2002年、怪我で出遅れるも中盤から先発としてチャンスを与えられ、終盤にはプロ初勝利を完投でマークします。同年は2勝に終わりましたが、星野仙一監督が就任して、最下位街道を抜け出す4位と自身もチームも光明が見えていました。そして、2003年、エース井川慶や新加入の伊良部秀輝らとともに、開幕ローテーション投手としてスタートします。しかし、高校時代から痛めていた右肘が悲鳴を上げました。6月に右肘靭帯損傷し、戦線離脱を余儀なくされます。右手首から靭帯を移植するというトミー・ジョン手術を受けたため、後半戦を棒に振りました。
2度のリーグ優勝に全く貢献できず、試行錯誤の日々が続く
2003年、阪神は開幕から独走して18年ぶりにリーグ優勝しました。藤田太陽はその輪に加われず2004年からは、登録名を「太陽」とし心機一転を図ります。それでも同年は術後のリハビリのため、一軍登板はゼロに終わりました。2005年、2年ぶりにローテーション投手の一人として開幕を迎えましたが、結果が伴わず二軍降格となります。その後中継ぎとして復活しましたが、JFKという完全勝ちパターンの存在もあって目立った活躍ができません。同年、再びリーグ優勝しましたがチームの戦力になったとはいえませんでした。
その後、度重なる怪我に苦しめられながら、結果を出すためにフォーム変更を繰り返します。サイドスローやスリークォーターなど試しましたが、一軍で輝くことができません。未完の大器、ブルペンエースなど歓迎しない呼び名も定着し始めたこともあって、出場機会を求めてトレード志願をしました。
移籍した西武では、即中継ぎに定着してセットアッパーを務める
2009年途中、水田圭介との交換トレードで西武ライオンズへの移籍が決まります。藤田太陽にとって、この移籍は吉と出ました。7月からの加入ながら、中継ぎとして25試合に登板し2勝0敗、防御率2.00と西武リリーフ陣の中心的存在となります。2010年は、好不調の波がありながらも、キャリアハイの48試合に登板して、6勝3敗、19ホールド、防御率3.91とクローザー・シコースキーへつなぐセットアッパーとして活躍しました。
2011年は、不調に陥り二軍降格を繰り返し、14試合登板に留まります。そのオフには戦力外通告を受けましたが、ヤクルトとの契約に合意し再びセ・リーグへ復帰しました。2013年、ヤクルト中継ぎとして、20試合で防御率1.93と少ないチャンスで見事に仕事をこなします。しかし、チームは最下位に転落し、自身も2度目の戦力外通告を受けました。
36歳にしてクラブチームで現役復帰し、都市対抗出場を目指す
2013年限りで現役を退くと、スポーツバーを開くことを目標に、西麻布の焼肉店に勤務して飲食店のイロハを学びます。その傍ら、野球解説者や大久保博元主宰の野球塾「デーブベースボールアカデミー」で講師も務めました。しかし、2015年、富山県のクラブチーム・ロキテクノベースボールクラブで投手兼任コーチとして36歳で現役復帰します。お店のオープンという夢を後回しにして、現在はチームの都市対抗野球大会出場を叶えるために、汗を流しています。