名前山田和利(ヤマダカズトシ)
生年月日1965年6月3日
日本
出身愛知県名古屋市中村区
プロフィール高校野球部では主将を務める。100メートル11秒6の俊足を買われ、1984年ドラフト4位で中日に入団。

1988年は、ユーティリティプレイヤーとして活躍してチームの優勝に貢献。1991年広島に移籍すると、強打の内野手となり、1995年には12本塁打、53打点をマーク。

1996年から中日に復帰するも故障して現役引退。1997年から2004年まで、中日コーチを歴任。その後2011年に広島コーチを務め、球団編成を経て、2015年からコーチとして現場復帰。

通算成績は366試合、865打数227安打、22本塁打、102打点、21盗塁、打率.262。東邦高卒、右投右打、180cm、76kg

甲子園出場経験はなかったものの、中日からドラフト4位指名

山田和利は、1965年愛知県にて生を受けます。地元の豊正中から、野球の名門・東邦高校へ進学して甲子園を目指しました。しかし、当時は中京高校が好調で、1982年には春夏連続で出場して、それぞれ全国ベスト4を成し遂げます。2年夏は、県大会準決勝敗退、同年秋に愛知県3位から東海大会ベスト8に残りましたが、1983年のセンバツ出場を逃しました。それでも、100mを11秒台で走れる俊足、主将を務めたキャプテンシーが評価されます。そして、1983年、ドラフト4位で地元球団の中日ドラゴンズから指名されました。

入団後3年間で、一軍経験は代打出場のわずか1打席に終わる

1983年のドラフト会議の目玉は、大学No.1右腕とされていた高野光で、4球団から1位指名を受けます。小野和義、川端順にも1位で指名が重複する中、中日は地元享栄高校のスラッガー藤王康晴を単独での1位指名に成功しました。さらに、2位では、後に兄弟プロ野球選手としてプレーした仁村徹を獲得します。山田和利は、1位の藤王と同じ愛知県の高校出身の内野手として4位での指名でしたが、実は5位指名が山本昌広であり、当時は全く注目されていませんでした。

同じ高卒ルーキーの藤王が夏から一軍昇格したのに対し、山田はファームでの育成、身体作りからスタートします。2年間、まったく一軍出場する機会は与えられず、3年目の1986年、5月に代打としてプロ初出場しましたが、同年の出場はその1打席に終わりました。

充実した内野手レギュラー陣のため、一軍定着できない日々が続く

4年目の1987年、チームは一時首位に立ちましたが、巨人の猛攻にあい2位で終わります。10月に入り巨人の優勝が決まると、主力の休養に伴い初めての先発出場機会が訪れました。シーズンも残り10試合を切った終盤、落合博満に代わって4試合連続で三塁手として8番で先発出場します。山田和利の本来のポジションは、遊撃手でしたが、中日には宇野勝という絶対的なレギュラーが君臨していました。

同年12試合を経験しましたが、ドラフトで同じ遊撃手のスーパールーキー立浪和義の入団が決まります。当時の星野仙一監督は、ルーキーを正遊撃手に抜擢し、ベストナインだった宇野を二塁手へコンバートするという驚きの選択をしました。立浪は高卒ルーキーながら、翌年の開幕戦にスタメンで抜擢されます。内野手には、落合、宇野、立浪と完全にレギュラーが固定されたため、山田の出番はほとんどなくなると思われました。

ユーティリティプレイヤーとして攻守に活躍し、リーグ優勝に貢献

1988年、山田和利は予想に反して82試合という多くの試合に出場します。落合博満、宇野勝はともに30歳を超えるベテランだったこともあって、後半の守備固めなどで、様々なポジションで貴重な働きを見せました。1試合でしたが外野手としても出場するなど、ユーティリティプレイヤーとしての地位を手に入れます。打席でも得意の俊足を披露して、チームトップの三塁打に、10盗塁、一方チーム3位の14犠打を成功させるなど小技でもチームに貢献しました。同年の中日は、4月終了時点で最下位でしたが、後半戦で怒涛の追い上げを見せて、逆転でリーグ優勝を実現します。山田も、キャリアハイの82試合に出場して、打率.268、2本塁打と貢献して初めて勝利の美酒を味わいました。

移籍した広島では、まさかの強打者へのモデルチェンジに成功

さらにチーム内での存在感を高めたいところでしたが、1989年は一軍出場無しに終わり、1990年も29試合出場と不本意な成績に終わります。すると、同年オフに2対2のトレードで広島東洋カープへの移籍が決まりました。

新天地でも、遊撃手には若手売出し中のスピードスター野村謙二郎、三塁手にも江藤智と強力ライバルが居ることは変わりません。移籍初年度は6試合出場と、チームの優勝に全く貢献できませんでしたが、そこから驚きのモデルチェンジに挑戦しました。

従来までは俊足が最大の武器でしたが、強打の内野手へと変貌します。1992年、二塁手のレギュラー正田耕三は、月間MVPを獲得する絶好のスタートを切りましたが、手首の故障後は山田がスタメンを務めました。同年は93試合に出場して、打率.282、8本塁打、29打点とニュースタイルの打撃を披露します。1993年、1994年は、内野手レギュラーが万全だったため、出番が減りましたが、1995年、故障した一塁手メディーナの穴埋めをする働きを見せました。キャリアハイの94試合に出場して、打率.270、12本塁打、53打点と強打者として活躍して、チームの2位確保に貢献しました。

期待されて中日へ復帰するも、故障により引退を余儀なくされる

1996年、中日に星野仙一監督が復帰すると、音重鎮とともに古巣への復帰が決まります。背番号も7を与えられ大きな期待を背負いましたが、故障を負ったことが原因で一軍出場ゼロに終わりました。そして同年限りでの引退を決意します。そして、即指導者への道を目指すことになりました。

そのまま球団に残り、二軍打撃コーチ、一軍内野守備・走塁コーチ、一軍打撃コーチなどを歴任し、1999年、2004年の優勝に貢献します。2005年からは一時フロント入りしましたが、2011年に広島のコーチ、球団編成を務め、2015年から再びコーチとして現場復帰しています。息子・裕貴が俳優として海賊戦隊ゴーカイジャーのゴーカイブルー役をしていることでも一時有名となりました。


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