名前藤井康雄(フジイヤスオ)
生年月日1962年7月7日
日本
出身広島県福山市
プロフィールプリンスホテルに入り、社会人野球で6年間活躍。1986年都市対抗で打率.333をマーク。全日本チームで4番を打ったこともある。

1987年ドラフト4位で阪急(現・オリックス)に入団。1988年ジュニアオールスターでMVPを獲得。1989年本塁打30本、90打点でベストナイン獲得。1990年も37本塁打、96打点と主砲を務める。1993年は前年までの不振から脱出し、2度目のベストナイン獲得。2002年限りで現役引退。

歴代3位の14本の満塁本塁打。代打満塁本塁打4本、1シーズン3本の代打満塁本塁打の日本記録を持つ。2003年からサーパス神戸打撃コーチに就任。T-岡団の育成に一役買う。2011年からは福岡ソフトバンクホークス打撃コーチに就任。

通算成績は1,641試合、4,787打数1,207安打、282本塁打、861打点、20盗塁、打率.252。ベストナイン2回。泉州高卒、181センチ、81キロ。右投左打

プリンスホテル6年間で長距離砲として頭角を現し、阪急に入団

藤井康雄は、広島県福山市で生まれ、小学2年生から野球を始めます。王貞治に強い憧れを持ち、同じ左打ちから美しい弾道で本塁打を放つようになりました。その後、野球留学した専修高校へ進学します。激戦区大阪では、甲子園出場という夢は叶いませんでしたが長打力にはさらに磨きがかかりました。

プリンスホテルへ進むと、同時にプロ入りした石毛宏典の背番号8を受け継ぎます。長距離砲として存在感を示し、石毛の後を追って西武入りが規定路線とも言われました。社会人5年目の1985年、ドラフト会議では清原和博の外れ1位候補となります。しかし6球団強豪の末、西武がクジを引き当て同年の指名は見送られました。それでも藤井は、1986年の都市対抗野球大会で打率.333をマークし、1年後のドラフトで名前が挙がります。順位は4位と下位指名でしたが、阪急ブレーブスから指名をうけて入団が決まりました。

2年目にチャンスをものにすると、ブレイクして20本塁打を放つ

24歳のオールドルーキー藤井康雄は、オープン戦で結果を出して、開幕一軍を勝ち取ります。しかし、外野手レギュラーには、福本豊、簔田浩二の両ベテラン、さらには中堅・熊野輝光と磐石で、指名打者にも石嶺和彦、一塁手にはブーマーとライバルがひしめき合っていました。まずは代打としての出場がメインとなりましたが、開幕戦の代打初打席で2ベースを放つなど順調なスタートを切ります。ルーキーイヤーは、77試合に出場して、打率.281、2本塁打を記録しました。

2年目には早くもブレイクします。5月にブーマーが故障して帰国すると、一塁手として先発出場する機会が多くなり、4番抜擢すらありました。ジュニアオールスターに出場すると決勝ホームランでMVPと貫禄を見せ付けます。するとブーマーが復帰後も、外野手として出場し、規定打席不足ながら、打率.286、チーム2位の20本塁打を放ちました。

ブルーサンダー打線の一角として名を連ね、本塁打を連発

1989年からは、球団がオリックスに変わり、門田博光を加えたブルーサンダー打線の一角を担います。不動の6番右翼手として、初めて規定打席に到達し、打率.292、30本塁打、90打点という好成績を残しました。オールスターでも本塁打を放つなど活躍し、オリックスは西武、近鉄との激しい優勝争いを演じます。勝率わずか1厘差の2位に終わりましたが、藤井はベストナインを受賞するなど飛躍の年となりました。

1990年も、5番としてキャリアハイの37本塁打、96打点を記録し2年連続2位に貢献します。1991年は守備時の怪我で、21本塁打と数字を落とし、さらに翌年はさらに怪我が重なりわずか20試合出場と不振の時期が続きました。しかし、1993年は、ともにチームトップの28本塁打、86打点で見事に復活します。同年は自身2度目のベストナインに選出され、さらにパ・リーグ特別表彰で努力賞を受賞しました。

ミスターブルーウェーブと称され、オリックスの連覇、日本一に貢献

1994年、3年目のイチローが大ブレイクし、チームメンバーも一気に若返ります。藤井康雄はかつてのブルーサンダー打線唯一の生き残りとして存在感を見せました。右翼手はイチローが務めたため、自身は一塁手に回り、1995年にはオリックスとして初の優勝に貢献します。さらに、翌1996年には、3番イチロー、4番ニールの後を打つ5番として、打率.274、20本塁打、61打点を残し連覇を達成しました。日本シリーズでは、全5戦中4戦に出場し、自身は2安打ながらチームは巨人を破っての日本一を達成します。主軸はイチローや田口壮でしたが、ファンからは彼らを差し置いて「ミスターブルーウェーブ」と呼ばれていました。

通算14満塁本塁打は歴代3位、代打満塁本塁打でも日本記録

戦力が充実していたオリックスは、その後も3年連続Aクラスを実現します。1998年には、本塁打王を獲得したウィルソンと3本差の30本塁打、80打点とさすがの健在振りを披露しました。しかし、同年を境に出場試合が減り始めます。40歳となった2002年は、現役最年長野手の一人となりましたが、53試合でわずか1本塁打に終わり同年で引退を決意しました。

藤井康雄は美しい弾道の本塁打が代名詞ですが、中村剛也(西武)、王貞治(巨人)に続く歴代3位の14本の満塁本塁打を記録しています。代打に限ると、通算4本の代打満塁本塁打、2001年の年間代打満塁本塁打3本はともに日本記録です。特に、2001年9月30日、3-6の9回裏2死満塁で放った一打は、ファンの心にしっかりと刻まれました。

指導者として、オリックス、ソフトバンクの打撃コーチで活躍

引退後は、古巣のオリックスの二軍サーパス神戸で打撃コーチに就任します。中でもブレイク前のT-岡田に同じ左のスラッガーとして的確なアドバイスを送り、大きなきっかけを与えました。一時は編成、そしてスカウトを務めていましたが2010年限りで退団すると、2011年からは福岡ソフトバンクホークスの一軍打撃コーチに就任します。独自の打撃理論は効果的で、3度のリーグ優勝、2度の日本一に貢献しました。2017年も、同球団の二軍打撃コーチとして腕を振るっています。


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