名前伊原春樹(イハラハルキ)
生年月日1949年1月18日
日本
出身広島県甲奴郡上下町
プロフィール北川工から芝浦工大を経て、1971年ドラフト2位で西鉄に入団。1973年太平洋、1976年巨人、1978年クラウンを経て、1979年西武に移籍。1980年引退。

引退後、西武の守備走塁コーチを経て、1999年シーズン終了後、阪神の守備総合・走塁コーチとなる。2000年10月退団。

2001年西武の作戦・守備・走塁コーチに就任。同年シーズン終了後、監督に就任。2002年、西武監督に就任すると独走優勝を飾る。2003年も2位と好成績を残したが、伊東勤にバトンを渡す。

2004年、オリックス監督就任も、プロ野球再編問題が勃発し同年退団。2007年からは古巣巨人のヘッドコーチに就任して、リーグ3連覇に貢献。2010年4連覇を逃して退任。2014年、再び西武監督に就任も、開幕ダッシュに失敗し、6月初旬に休養しそのまま退団。

通算成績は450試合、784打数189安打、12本塁打、58打点、7盗塁、打率.241。芝浦工業大学卒、右投右打、180cm、76kg

芝浦工業大学時代、選手兼任監督を務めるなど、優勝も経験

伊原春樹は、広島県甲奴郡上下町(現在の府中市)に生まれ、6人兄弟という大家族で育ちます。そして、地元の上下中学を経て、私立北川工高校へ進学して甲子園を目指しました。3年時には4番三塁手として出場し、県大会ベスト8まで進出します。広島電機との準々決勝では延長14回の熱戦を勝利し、準決勝では自ら本塁打を放ち、決勝戦までたどり着きました。そして、それまですでに9度甲子園に出場し全国制覇経験もあった強豪・広島商業との決勝戦を迎えます。しかし、初回から4点を奪われると、相手エース山本和行に、3安打に抑えられるという0-8の完敗で敗れ、初の甲子園出場は叶いませんでした。

芝浦工業大学へ進学しても中軸打者を務めます。1968年には、芝工大として2度目の優勝に貢献しました。4年時は学園紛争のため部員がどんどん減る中、監督兼主将としてチームを牽引します。戦力が落ちる中、何とか1部残留を成し遂げました。1970年、授業を満足に受けることができず、卒業資格を持たないまま、西鉄ライオンズにドラフト2位で指名されます。大学を中退せざるを得なくなりましたが、およそ30年後の2004年3月に単位を取得して見事卒業しました。

西鉄ライオンズ2位指名で入団も、準レギュラーの域を脱せず

当時の西鉄ライオンズは、かつての猛者軍団ではなくなり、前年の黒い霧事件の余波もあって大きく低迷していました。主力選手が抜けたことで、攻守に若手を使わざるを得ない状況で、東尾修、東田正義、竹之内雅史らが大きく花開きました。伊原春樹も1年目から一軍に定着し、竹之内の控え三塁手として39試合に出場します。2年目には竹之内が外野手となったため、レギュラー選手として118試合に出場しました。しかし打撃であまり貢献できず、翌年以降は大きく出場機会を減らします。1976年からは、2対2のトレードで、巨人への移籍が決まりました。

ともに移籍した加藤初が長嶋巨人V1に大きく貢献する中、自身はわずか9試合の出場に終わります。2年目は一軍出番がなく、球団名が変わっていた古巣・クラウンライターライオンズへ復帰しました。準レギュラーとして出場を増やしましたが、1980年は21試合出場に終わり同年限りで現役を引退しました。

西武コーチとして、伝説の走塁を演出するなど手腕を発揮

引退後即、古巣・西武ライオンズのコーチに就任します。二軍守備走塁コーチ、二軍打撃コーチなどを務めて、1987年には一軍守備走塁コーチに就任しました。当時、三塁コーチはバート・キャンパネリスが務めていましたが、上手く機能しないため、伊原春樹が抜擢されます。すると、日本一を決める日本シリーズでその名を全国に知らしめることになりました。

同年のセ・リーグは巨人が開幕から好調で、2位に8ゲーム差をつけて優勝を飾ります。井原は、シーズン途中から巨人を研究し、中心打者クロマティの中堅手の守備に大きな穴があることを見抜いていました。そして、西武ナインには、センターにボールが飛んだ場合、2つ先の塁を狙うよう指示します。それが王手をかけて臨んだ第6戦でピタリとはまりました。2回裏、1死二塁の場面で中飛となると、2塁ランナーが一気にホームを落としいれます。さらに2-1とリードした8回裏、1死一塁から秋山幸二がセンター前ヒットを放つと、1塁ランナー辻発彦は迷うことなくホームインし、3つ先の塁まで到達しました。野球の質の違いを見せつけて、西武は巨人を破って日本一になります。その後も、1999年まで西武に在籍し、三塁コーチャーとして黄金時代を支えました。

西武ライオンズ監督に就任すると、いきなり独走優勝を達成

2000年に1年だけ阪神タイガースでコーチを務めた後、2001年から再び古巣西武に復帰します。2002年からは、正捕手の伊東勤が監督就任するまでのつなぎとして、一軍監督を引き受けました。前年3位に転落していたチームでしたが、松井稼頭央がトリプルスリー達成、4番カブレラがシーズン55本塁打と大爆発するなど、圧勝でパ・リーグを制します。しかし、日本シリーズでは原辰徳率いる巨人にまさかの4連敗を喫しました。

2003年、2位と好成績で終わりましたが、2004年から伊東が監督就任するため自身は身を引きます。しかし、その手腕に期待したオリックス・ブルーウェーブから要請があり、監督に着任しました。前年まで2年連続で最下位と、大きく低迷したチームのてこ入れが期待されます。ところが、シーズン途中に近鉄との合併というプロ野球再編問題が勃発し、野球どころではなくなりました。結局同年も最下位となり、監督を退任しました。

巨人ヘッドコーチに着任して、V9以来のリーグ3連覇に貢献

その後しばらく解説者生活を送っていましたが、2007年からは巨人のコーチに就任します。原辰徳監督を補佐するヘッドコーチとして、鬼軍曹振りを発揮しました。前年まで巨人の歴史で一度もなかった2年連続Bクラスでしたが、2007年からは復活のリーグ3連覇を成し遂げます。そのうち日本一となったのは2009年のみでしたが、伝説のV9以来の3連覇はまさに古豪復活でした。2010年、4連覇そして日本シリーズ連覇を賭けて挑みましたが、わずか1ゲーム差で敗れます。伊原は責任を取ってコーチを辞任しましたが、球団の慰留を受け球団編成本部シニアアドバイザーに異動しました。

西武第2期監督時代は、成績不振でまさかの途中休養から退団

2014年、11年ぶりに西武一軍監督へ復帰します。伊東勤、渡辺久信と黄金時代の中心だった選手が監督に就任しましたが、かつてのような連覇は途絶えていました。伊原春樹は、チームに緊張感を与えるため、厳しい規律主義を取り入れます。しかし、若い選手が主体のチームは拒否反応を示し、開幕から大きく負け越してしまいました。約2ヶ月経過時点で、借金二桁以上、首位から12.5ゲーム差という状況となります。あまりの低迷に伊原は休養を申し入れ、以後の指揮を田辺徳雄打撃コーチに託しました。


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