名前 | 豊田清(トヨダキヨシ) |
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生年月日 | 1971年2月2日 |
国 | 日本 |
出身 | 三重県亀山市 |
プロフィール | 鈴鹿高から同朋大学に進み、大学2年の時エースとしてチーム創部37年目で初の愛知リーグ一部昇格に貢献。
1992年ドラフト3位で西武に入団。1995年9月近鉄戦でプロ初登板。1996年7月ダイエー戦で同初白星、9月プロ初完封。1997年、1999年は先発として二桁勝利。2001年からクローザーに転向。2002年からともに38セーブをマークして2年連続で最優秀救援投手のタイトル獲得。2004年は11セーブに終わるも、日本シリーズでは3セーブで胴上げ投手となる。 2005年オフFA権を行使して、巨人へ移籍。クローザーとしてスタートするも2年連続でその座を奪われる。2008年からは完全に中継ぎに定着すると50試合近くの試合に登板しチームの3連覇に貢献。2010年オフ戦力外通告。2011年は広島で中継ぎとして活躍するも、現役引退を決意。2012年からは巨人投手コーチに就任。 通算成績は558試合、66勝50敗157S、81ホールド、防御率2.99、992回1/3、859奪三振。最優秀救援投手2回、鈴鹿高卒、同朋大学卒、右投右打、180センチ、75キロ |
同朋大学を初の1部リーグ昇格に導き、西武入団を実現させる
豊田清は、三重県に生まれ、高校卒業までを地元で過ごします。当時、甲子園出場経験のなかった鈴鹿高校でもエースになれず、二番手投手に甘んじ、全く無名のまま高校生活を終えました。当然この時点でプロへの道は開けず、同朋大学へ進学します。中央からも遠く離れた愛知大学リーグでしかも2部に所属と、ほとんど目立たないリーグで大学野球をスタートさせました。
しかし投手として徐々に力をつけると、2年生時に一気に才能を開花させます。1990年秋季リーグで5勝をマークして名古屋大学と9勝3敗、勝ち点4で同率1位にチームを引き上げました。そして優勝決定戦も、先発すると1-0で勝利し、2部初優勝を成し遂げます。文句なしのMVPに選出されると、入れ替え戦でも2戦2勝して、初の1部昇格を実現しました。1部では9勝16敗と負け越しでしたが、すでに西武ライオンズのスカウトの目には留まっており、1992年ドラフト3位で指名されます。鈴鹿高校、同朋大学卒業としてはともに初となるプロ野球選手となりました。
4年目からローテーション投手に抜擢されて、2度の二桁勝利
同期入団の杉山賢人(ドラフト1位)、前田勝宏(同2位)らが、ルーキーイヤーから一軍で登板するなか、自身はファームスタートとなります。結局、プロ入団後2年間は、一軍登板は一度も訪れませんでした。3年目の1995年、西武監督に東尾修が着任すると、シーズン終盤ながらようやくプロ初登板を果たします。1996年には、中盤から先発ローテーション投手に抜擢されて、プロ初勝利を含む5勝、防御率3.08と頭角を現しました。
1997年は、開幕ローテーション投手に入り、順調に勝ち星を積み重ねます。チームの優勝に貢献する10勝をマークしましたが、終盤に肘痛で戦線離脱し、日本シリーズの登板はありませんでした。1998年、故障の影響から4勝に終わりましたが、東尾監督の信頼は厚く、日本シリーズ第2戦の先発に抜擢されます。1999年は、松坂大輔、西口文也、石井貴らと強力先発4本柱の一角として自身2度目の二桁勝利を達成しました。
クローザーに転向すると、2年連続セーブ王に通算100セーブ達成
2000年も先発としてスタートしましたが、中盤に崩れるパターンが多く、5勝9敗と壁にぶつかります。しかし、類まれな集中力は、短いイニングでより活きると考えた東尾修監督は、豊田清をクローザーに転向させました。するといきなり、5勝3敗28セーブという成績で守護神を務めます。同年8月には3本のサヨナラアーチを浴びながらも、防御率は2.83でした。
クローザーとして申し分ない成績でしたが、2002年、圧巻の成績をマークします。57試合に登板し、6勝1敗38セーブで当時のパ・リーグセーブ記録を塗り替えて、防御率は0.78という驚異的な数字でした。2003年も、58試合で2勝3敗38セーブ、防御率1.24で2年連続最優秀救援投手のタイトルに輝きます。クローザー転向わずか3年で通算100セーブをマークします。2004年は故障でフルシーズンを戦えませんでしたが、日本シリーズで3セーブとチームの日本一に貢献しました。
FAで巨人移籍するも、2年連続でシーズン途中にクローザー剥奪
2005年、防御率を3.97と落とすも、19セーブで西武守護神を務めます。同年35歳とベテランでしたが、オフにFA宣言して新天地を模索しました。そして豊田清は、クローザーが固定できずに悩む巨人を次のチームに選びます。2006年、比較にならないマスコミやファンの数の中、開幕第3戦に移籍後初セーブをマークしました。巨人にとって長年の課題が解決したかに思えましたが、その後救援失敗を繰り返します。7月には右肩痛を発症して登録抹消となりました。もちろんチームにとってクローザー不在にするわけにはいかず、高橋尚成にその座を奪われます。一軍復帰後は中継ぎに回ったため、移籍1年目の成績は1勝4敗13セーブと不本意に終わりました。
チームは球団初の2年連続Bクラスと低迷し、2007年は派遣奪還が至上命題となります。同年もクローザーとしてスタートしましたが、前年同様に救援失敗を繰り返しました。非常事態に、先発の柱だった上原浩治が急造クローザーを務めます。すると、テンポのいい投球で4勝32セーブをマークしたため、豊田は中継ぎにまわりました。
セットアッパーとして巨人のリーグ3連覇、日本一に大きく貢献
2008年からの巨人は、横浜ベイスターズからクルーンを獲得して新クローザーに据えます。豊田清は、山口鉄也、越智大祐ら若い投手とともに、クルーンへ繋ぐ中継ぎに徹しました。50試合に登板して、チームトップの23ホールドを稼ぎ、チームの連覇に貢献します。古巣との日本シリーズでは敗れましたが、登板した3戦すべてを無失点に抑えて意地を見せました。
2009年は、かつての西武守護神時代に匹敵する安定感を見せます。46試合に登板して、2勝15ホールドに、防御率1.99の成績を残し、巨人ではV9時代以来のリーグ3連覇を達成しました。日本ハムとの日本シリーズでも、前年に続いて3試合に登板します。全戦無失点と仕事をこなして、巨人移籍後初の日本一を経験しました。
晩年は広島東洋カープを経て引退し、巨人で投手コーチに就任
39歳で迎えた2010年シーズン、不調が続いて二軍暮らしが長くなり、16試合登板に終わります。同年秋には戦力外通告を受けましたが、中継ぎ不足に悩む広島東洋カープへの移籍が決まりました。2011年、投手最年長ながら32試合に登板して、防御率3.08とまずまずの成績を残します。球団としては来期の戦力として見込んでいましたが、同年で自ら現役引退を決意しました。引退後は、巨人へ復帰して、投手コーチに就任しています。