名前 | パンチョ伊東(パンチョイトウ)伊東一雄(イトウ/カズオ) |
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生年月日 | 1934年4月7日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都豊島区西巣鴨 |
プロフィール | 幼い頃から野球を愛し、中学時代に大リーグの試合を見てからは、メジャーファンとなる。
1959年故中沢不二雄パ・リーグ会長の秘書としてパシフィック野球連盟事務局に入り、業務課長を経て、1976年初代広報部長。1968年からドラフトの司会・進行役をつとめ、1991年12月退職。 元阪急スペンサーが命名した“パンチョ”の愛称で親しまれ、米国の大リーグに造詣が深い。1992年からはジャーナリストとしてメジャーリーグ取材で活躍。 著書に「アメリカ大リーグ」「これが大リーグだ」「624人の大リーガー」、共著に「野球は言葉のスポーツ」など |
幼い頃から野球に魅せられ、メジャーリーグへ夢中となる
パンチョ伊東(本名・伊東一雄)は、1934年東京都豊島区に生まれます。時は戦時下にあり、戦火を逃れるために千葉県市川市に転居して幼少期を過ごしました。父親の影響で、野球好きとなり、神宮には大学野球を、後楽園には巨人戦を見る為に通うようになります。しかし、中学時代に来日したサンフランシスコ・シールズの試合を見てからは、一転してアメリカメジャーリーグへ興味が移りました。高校1年のときに、野球指導で来日していたスーパースターのジョー・ディマジオからサインを貰うと益々メジャーリーグに魅せられます。進駐軍向けのラジオにかじりつき、独学で英語を学びながら大リーグ放送を聞いていました。
パ・リーグ広報部長として、日米野球界の橋渡し的存在を担う
プロ野球解説者だった中澤不二雄に対して、大リーグ情報をまとめて贈ることで個人的に親しくなります。1959年、中澤が太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)の初代会長に就任しました。すると、中澤は伊東一雄を秘書として指名し、パ・リーグ事務局入りをします。同年6月に行われた天覧試合でも、昭和天皇への説明役を務めた中澤とともに球場入りしました。1968年には、こうしたパ・リーグの仕事の合間を縫って、今は取り壊されたセントルイスのスポーツマンズ・パークで初めてメジャーの土を踏みます。その後も、休みを見つけては趣味としてメジャーリーグの球場を巡りました。
1976年からは、パ・リーグ広報部長に就任します。時を同じくして、フジテレビで大リーグ中継がスタートすると、豊富な知識を買われて解説者に抜擢されました。まさに、伊東にうってつけの仕事であり、数々のエピソード含めて大リーグ情報を世間に広めます。日本プロ野球に助っ人として来ていたダリル・スペンサーやジャック・ブルームフィールドが名付け親といわれていますが、パンチョという愛称も広まりました。パンチョ伊東の功績もあって、第1次メジャーブームが起こります。その後も、足しげくアメリカに通うと、その認知度はどんどん上がり、マイナーの選手でさえにも知れ渡るようになりました。
第1回ドラフト会議から25年間、声を担当し1991人を読み上げる
パ・リーグの名物広報部長だったパンチョ伊東は、もう一つ大きな仕事を任されます。日本プロ野球では、1965年に第1回プロ野球新人選手選択会議、いわゆるドラフト会議がスタートしましたが、初代司会者として指名された選手たちの名前を読み上げた人物こそパンチョ伊東でした。
独特で歯切れよい口調による進行は、ドラフトの名物となります。ドラフト外を除いて、パンチョ伊東に名前を呼ばれずして、プロ野球界に入ることはなくなりました。まさにハマリ役で、一度読み上げた選手たちはその名前ばかりか経歴まで忘れずに記憶します。自身がパ・リーグを退いた1991年までの25年間、実に1991人(プロ入り拒否選手含む)もの選手の名前を読み上げました。1年に1回の一大イベントのため、本番前には毎年欠かさず予行練習も実施します。そして、その最後となったドラフト会議では、後にメジャーへ渡る事になったイチローこと鈴木一郎の名前もありました。
パ・リーグ退局後も、日本人メジャーリーガーの応援団長として活躍
1991年にパ・リーグ広報部長の職を退くと、翌年からジャーナリストとしてメジャーリーグにかかわり続けます。フジテレビ「プロ野球ニュース」のメジャーリーグコーナー、またニッポン放送の「ショウアップナイタープレイボール」のMCなどを務めて、お茶の間にメジャー情報を伝え続けました。1995年に、野茂英雄が海を渡るなど、第2次メジャーブームが起こると、現地に飛んで持ち前の知識を存分に披露します。2000年、日本で行われた史上初の大リーグ公式戦(ニューヨーク・メッツ対シカゴ・カブス)でも解説者として存在感を示しました。
2001年、イチローが鮮烈なメジャーデビューを飾り、全米を虜にします。2002年には、イチロー、そして佐々木主浩の応援のため、シアトルに駆けつけました。応援はもちろんのこと、第9代MLBコミッショナーだったバド・セリグと単独会見を開くなど、コネクションの広さも見せ付けます。しかし、この時すでに、パンチョ伊東の身体は病魔に蝕まれていました。
蝕まれた癌細胞に打ち勝てず、68歳で人生の幕を閉じる
シアトルから帰国後の6月、肩や背中に激痛が走り緊急入院を強いられます。すでに、癌細胞が全身にはびこっており、闘病生活となりましたが、衛星放送でイチローら日本人メジャーリーガーを応援し続けました。一度、地元の千葉県市川市に転院しましたが、再び慶応病院に移されます。そして2002年7月、イチローの出場するオールスターゲームを生観戦するという夢を叶えられず、帰らぬ人となりました。現在のプロ野球ドラフト会議では、パンチョ伊東の後任としてアナウンサーが務めています。しかし、オールドファンは、毎秋のドラフトが近づくたびに、あの歯切れのよい口調を思い出さずにいられません。