名前貴乃花光司(タカノハナコウジ)
生年月日1972年8月12日
日本
出身東京都杉並区
プロフィール二子山親方(元大関貴ノ花,元藤島親方)の次男。小学校4年の時わんぱく相撲横綱。

明大中野中在学中の昭和63年2月兄・勝(元横綱・若乃花,現藤島親方)と一緒に藤島部屋(現・二子山部屋)に入門。1988年春場所初土俵。1989年夏場所、16歳9ケ月の史上最年少で幕下優勝。同年秋場所で全勝優勝し、史上最年少関取に。7組目の親子関取となった。

1990年春場所で9勝し、史上最年少の新入幕を果たした。1991年春場所で平幕11連勝・12勝3敗の快挙を成し遂げ、18歳7ケ月の最年少で敢闘賞・技能賞を受賞。1991年夏場所で千代の富士を破り初金星(18歳9ケ月は最年少)。名古屋場所で小結に、秋場所で史上初の10代関脇に昇進。1992年初場所で初の10代優勝、3賞も独占。同年秋場所も優勝。

1993年1月最年少で大関に昇進。同年夏場所優勝。1994年初場所はカド番ながら4度目の優勝を果たす。同年夏場所優勝。秋場所には史上最年少で全勝優勝。九州場所より貴乃花に改名、同場所で2場所連続して全勝優勝し、場所後第65代横綱に昇進。

1995年初場所優勝。新横綱の優勝は12年ぶり。同年夏場所優勝、名古屋場所優勝、秋場所優勝。1996年春場所優勝、夏場所優勝、名古屋場所優勝、秋場所全勝優勝。九州場所は急性腸炎のため休場。1997年春場所、名古屋場所、秋場所優勝。1998年初場所からは肝機能障害で休場が続くが、名古屋場所、秋場所優勝。2000年初場所で幕内通算600勝を達成。

以後も怪我や体調不良に悩まされるが、2001年初場所で14場所ぶりに優勝。同年夏場所では千秋楽に右膝亜脱臼の重傷を押して出場、優勝決定戦の末、優勝。7月渡仏し、右膝半月板の手術を受ける。優勝22回。殊勲賞4回、敢闘賞2回、技能賞3回。明大中野中卒。187センチ、157キロ。1995年5月元アナウンサーの河野景子と結婚

相撲界のサラブレッドとして生まれ、兄とともに藤島部屋に入門

貴乃花光司は、父が元大関の貴ノ花利彰(二子山親方)、母は女優の藤田紀子、さらに伯父が初代若乃花(第45代横綱)という相撲界のサラブレッドとして生まれます。1歳年上の兄(第66代横綱・三代目若乃花)とともに幼少期から相撲部屋で可愛がられました。小学生当時から立派な体格で、わんぱく相撲の全国大会で優勝するなど、わんぱく横綱として腕を鳴らします。そして明大中野中学卒業後、兄とともに父が師匠、母が女将さんとなる藤島部屋に入門しました。1988年(昭和63年)3月場所に初土俵を踏むことになりましたが、同期は95名中、3横綱1大関含めて11名の関取を輩出します。後に最強のライバルとなった曙や魁皇も含まれていました。

史上最年少金星で、昭和の大横綱・千代の富士に引退を決意させる

新弟子検査から、完成された肉体と相撲技術を持つ貴乃花は、脅威のスピードで出世していきます。1990年5月、17歳8ヶ月で新入幕を果たし、1991年3月場所では、27年ぶりの平幕11連勝を見せるなど早くも優勝争いに参加しました。そして、西前頭筆頭にあがった1991年5月場所では、自身の手で世代交代を強く推し進めます。昭和の大横綱と呼ばれた千代の富士と初日でぶつかると、寄り切りで完勝し史上最年少金星を獲得しました。この2日後に千代の富士は、体力の限界を理由に引退を表明します。まさに相撲界の主役が変わった瞬間であり、引導を渡した大一番となりました。

幕内初優勝、史上最年少大関昇進と空前の若貴フィーバーを起こす

兄・若花田も弟に少し遅れたものの、新入幕から天性の勝負勘で番付をあげていき、横綱・旭富士から2個の金星を奪うなど頭角を現します。相撲界のニューヒーロー誕生は、若貴フィーバーとして、空前の大ブームを起こしました。絶大な人気に後押しされて、その後も順調に番付を上げると、1991年秋場所で史上初の10代関脇に昇進します。そして1992年初場所では、14勝1敗で幕内初優勝を19歳5ヶ月の若さで達成しました。

同年の秋場所でも2度目の優勝を飾ると、翌1993年1月場所でも11勝4敗と安定した成績を残し、史上最年少で大関に昇進します。奇しくも同タイミングで、ライバル曙も横綱まで上り詰めました。そして、改名した大関・貴ノ花として2場所目の1993年夏場所で自身3度目の優勝を飾ると、いよいよ翌場所で綱獲りに挑戦します。順調に勝ち星を積み重ねましたが、千秋楽を終わって横綱曙、関脇若ノ花の3名が13勝2敗で並び優勝決定戦となりました。しかし、曙が若貴兄弟を続けて破り、貫禄の優勝を実現します。兄弟初取組が実現する可能性もあっただけに、盛り上がりは最高潮となりました。

横綱として4連覇を狙うも、史上初の兄弟優勝決定戦で兄に敗れる

その後、さらに2度の優勝を経験するも、横綱昇進に必要不可欠な2場所連続の活躍ができず約1年が経過します。しかし、1994年秋場所から2場所連続全勝優勝という偉業を成し遂げました。まさに文句のつけようがない結果を残し、ついに第65代目横綱へ昇進します。そして新横綱としての場所でも優勝を飾り、自身初の3連覇を達成しました。

4連覇を狙った春場所では、相星決戦で曙に敗れましたが、翌5月場所から再び3連覇と好調を維持します。再び4連覇を目指した年内最終の九州場所では、日本中が注目する一番がついに実現しました。14日目を終えて12勝2敗で、兄・若乃花とともにトップに立ちます。千秋楽で若乃花が武双山に敗れたため、自身が武蔵丸に勝てば4連覇達成でしたが同じく屈し、史上初となる兄弟優勝決定戦が執り行われました。相撲ファンが固唾を呑んで注目した取組みは、兄が意地を見せて下手投げで勝利し、2度目の優勝を飾ります。結局の兄弟での取り組みはこの一番が最初で最後となりました。

平成の大横綱として優勝を積み重ねるも、怪我で苦しむ時期が続く

1996年、初場所では同部屋の大関・貴ノ浪との優勝決定戦で敗れましたが、3月場所から自身初の4連覇を達成します。当時24歳にして15度の幕内優勝という実績から、平成の大横綱と呼ばれました。大鵬の持つ32回を超えることも疑わしくないほどの強さでしたが、巡業中の怪我が相撲生命を大きく狂わせます。背筋の肉離れで11月場所を休場すると、その後は万全だった貴乃花の強さに陰りが見え始めました。1997年は3場所、翌1998年は2場所で優勝を飾るも、明らかに相撲の質が落ちていきます。1998年秋場所を最後に、優勝から大きく遠ざかり、優勝争いに加われない日々が続きました。

2001年初場所では、優勝決定戦で武蔵丸を下し、実に14場所ぶり21度目の優勝を飾ります。続く春場所では12勝3敗で連覇を逃しますが、5月場所は初日から13連勝と強い横綱の復活を印象付けました。しかし、14日目の取組みで右膝半月版損傷という大怪我をします。休場せざるを得ない重傷でしたが、強行出場を選択しました。しかし千秋楽ではあっけなく敗れ、武蔵丸との優勝決定戦となります。立つだけでもやっとの状態で、武蔵丸の勝利はほぼ間違いないと思われました。しかし、決定戦では怪我を感じさせない動きで豪快な上手投げを見せて、奇跡の逆転優勝を実現します。取組み後に見せた鬼の形相とともに、大相撲の歴史に語り継がれる大一番となりました。

7場所連休場から復帰して意地を見せるも、ついに続現役引退

世間を感動の渦に巻き込んだ22度目の優勝でしたが、予想以上に大きな代償となりました。その後、手術を経て長いリハビリ期間へ突入しましたので、1年以上の休場が続きます。7場所連続全休は、大相撲史上ワーストを更新し、風当たりも相当強くなりました。2002年秋場所で8場所ぶりに復帰し、12勝3敗と優勝争いを演じましたが、再び膝を悪化させます。翌場所を再び休場し、2003年初場所で進退を賭けて出場しましたが、9日目で現役引退を表明しました。

引退後は、相撲界から一戦を引いた兄と異なり、二子山部屋の部屋付き親方を経て、二子山部屋を継承します。同時に、貴乃花部屋へ部屋の名前を変更しました。途中、部屋から関取が不在となるなど、所属力士が減少しますが、若手への指導に汗を流しています。日本相撲協会理事としても精力的に活動しています。


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