名前佐藤真一(サトウシンイチ)
生年月日1965年8月7日
日本
出身北海道札幌市
プロフィール高校では投手。大学2年生の時肩をいため外野手に転向。

のち北海道拓殖銀行に入行。3番打者で遠投130メートルの強肩を誇り、俊足好打の右翼手として活躍。1989年全日本メンバーとしてキューバ対抗、インタコンチネンタル杯(プエルトリコ)、アジア選手権(ソウル)などを経験。1990年カナダ・エドモントンで開かれた世界アマチュア野球選手権に出場し、9試合で35打数20安打14打点で優秀選手に。さらに米国・アトランタで開かれた世界アマチュア野球オールスターで初代MVP(最高殊勲選手)に選ばれた。

1992年バルセロナ五輪代表、銅メダル獲得に貢献。同年ドラフト4位でダイエーに入団、契約金は下位指名としては最高の1億円。即戦力として期待されるも3年間不本意な成績に終わり、1995年オフにヤクルトに移籍。

新天地では堅守で一軍に定着。1999年、シーズン途中に3番打者に定着すると、球団新記録となる25試合連続安打を達成。同年は打率.341、13本塁打の好成績。

2000年、右肘靭帯断裂の怪我で調子を落とし、オフに右肘靭帯再建術。1年半のリハビリを経て2002年、戦列復帰。その後は厚いレギュラー争い、高年齢に勝てず2005年現役引退。

2006年からヤクルトコーチに就任。守備コーチ、打撃コーチ、一軍ヘッドコーチなど9年間歴任。2015年オリックス打撃コーチを経てフロント入り。

通算成績は629合、1,440打数376安打、36本塁打、155打点、25盗塁、打率.261。東海大四高卒、東海大学卒、185センチ、82キロ。右投右打。

社会人時代に大きく成長し、バルセロナ五輪銅メダルに貢献

佐藤真一は、北海道札幌市で生まれ、地元を離れることなく野球の腕を磨きます。東海大四高校時代は、投手を務めていましたが、2年、3年と南北海道大会決勝で敗れ、甲子園には縁がありませんでした。東海大学時代に、肩を痛めて外野手へ転向すると強肩強打の野手として首都大学リーグを戦います。しかし、当時はまだ目立つ存在ではありませんでした。

北海道拓殖銀銀行へ進んで社会人野球をスタートさせると、1989年の社会人ベストナインに選出されて、以後日本代表常連メンバーとなります。インタコンチネンタル杯、アジア選手権などの国体大会を経験し、1990年の世界アマチュア野球選手権で高打率を残して優秀選手に選出されました。さらに世界アマチュア野球オールスターでは初代MVPを獲得するなど、アマ野球界で名を馳せます。バルセロナ五輪日本代表にも当然のように選出されると、本戦でも全9試合に3番打者として出場して、日本の銅メダル獲得に貢献しました。

即戦力としてダイエー入団するも、期待の長打力を発揮できず

1992年ドラフト会議において、福岡ダイエーホークスから4位指名を受け、27歳という遅咲きでプロ野球選手となります。下位指名ながら、史上最高の契約金1億円、背番号7という1位並の評価でした。1992年限りでブーマー・ウェルズ、門田博光という二人の長距離砲が不在となったこともあって、即戦力として期待されます。1993年の開幕第2戦に代打で初出場し、5月には初先発するなど56試合に出場しましたが、打率.180に0本塁打と大きく期待を裏切りました。

2年目の1994年には、常勝西武ライオンズから秋山幸二が移籍して、外野手レギュラー争いがさらに厳しくなります。同年は24試合と大幅に出場機会を減らしましたが、秋山が怪我で離脱した際に、代役4番に抜擢されるなどその長打力には期待されていました。1995年、ともにバルセロナ五輪を戦った小久保裕紀が、右の大砲として4番に定着します。勝負の3年目にも関わらず、出場機会はわずか7試合に終わりました。

ヤクルト移籍後は、守備固め中心ながら出場機会を増やす

ダイエー入団の3年間で87試合出場の20安打、0本塁打の成績に終わると、オフにヤクルトスワローズへのトレード移籍が決まります。当時のヤクルトは、野村克也監督就任後、かつての低迷時代から脱し、1993年、1995年に日本一となるなど黄金時代を迎えていました。

さらに、ともに移籍した田畑一也は、野村再生工場と呼ばれた復活の代名詞として、移籍後12勝、15勝と勝ち星を重ねます。佐藤真一も、外野手としての守備力を買われて、移籍初年度にキャリアハイの61試合に出場しました。得意だった打撃では、3年間で打率1割台が2回と不振から脱せません。それでも、シーズンでプロ初本塁打を記録し、1997年の日本シリーズ第4戦でも、ダメ押しの2ランを放って潜在能力の高さを証明しました。

3番打者抜擢に応えて、外野手レギュラーとして攻守に活躍

1999年、野村克也の後任として、同郷出身の若松勉が監督に着任します。シーズン当初は、控え外野手でしたが、新外国人マーク・スミスの調子が落ちた7月以降は、3番打者に定着しました。プロ入団以降、不安定だった打撃でしたが、球団新記録の25試合連続安打を達成するなどシュアなバッティングでチームを牽引します。同年はシーズン終了まで3番の座を守り、規定打席不足でしたが113試合出場、打率.341、13本塁打、48打点というキャリアハイの成績を残しました。

怪我で戦線離脱した年に、チームは4年ぶりの日本一奪還

2000年、3番左翼手として自身初の開幕スタメンに名を連ねてシーズンをスタートさせます。前年の好調をそのまま維持していましたが、5月中旬に右肘靭帯断裂の怪我を負いました。その後も、騙し騙し出場を続けましたが、稲葉篤紀や副島孔太にレギュラーの座を明け渡します。同年は70試合出場で打率.226、8本塁打、19打点に終わり、オフに右肘靭帯再建術を受けました。

手術の代償は大きく、1年半ものリハビリを強いられます。その結果、2001年の出場は自身初のゼロに終わりました。さらに同年のヤクルトは、野手レギュラー8名全員が規定打席に到達するという安定間抜群で、4年ぶりのリーグ優勝、日本一を成し遂げます。佐藤真一はチームの優勝に全く貢献することなく、辛いリハビリの時期を過ごしました。2002年、戦線復帰すると絶対的なレギュラーとなった稲葉の控え外野手に甘んじます。その後、守備固めや代打としての起用が多くなりましたが、2004年には打率.323を残すなど存在感を見せました。

40歳で現役を退くと、長年ヤクルト指導者を務める

プロ入りが27歳と遅かったこともあって、2005年シーズンは大ベテラン39歳で迎えます。2年目の青木宣親やアレックス・ラミレスなど外野手は激戦区となり、控えの立場としても出場が激減しました。結局、同年の出場は7試合に終わり、現役引退を決意します。途中入団にも関わらず、引退セレモニーを企画されるなど、選手、ファンから愛されていました。

引退後は球団に残り、2006年から即指導者に転身します。守備コーチや打撃コーチなどを歴任して、2014年シーズンは一軍ヘッドコーチとして小川淳司監督を支えました。2015年は、オリックス・バファローズの一軍打撃コーチに就任しましたが、成績不振で1年で退任し、現在はフロント入りしています。


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