佐々木勉について
名前 | 佐々木勉 |
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生年月日 | 1979年7月7日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県佐倉市 |
プロフィール | 志津小2年で野球を始め、志津中では八千代シニアに所属。中央学院高に進み、平成9年の全国高校野球選手権千葉県大会2回戦の船橋北戦で5回ホームラン(高校通算35号)を放ち大勝。185センチ、76キロ
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大型ショートとして注目される存在に
佐々木勉が生まれ育ったのは千葉県佐倉市。この地で生まれ育った野球選手と言えば、なんといっても長嶋茂雄。
佐々木が生まれたころには長嶋はすでに引退していましたが、ミスタープロ野球とも言えるレジェンドを生んだ街だけに当時の少年は野球をやるのはごく自然なこと。そのため佐々木も小学2年生のころから野球を始めました。もともと運動神経の良かったためか、少年野球チームでもすぐにレギュラーに。この頃から身長もグングンと伸びていき、大型ショートとして知られるようになります。
そして中学進学時、佐々木は八千代リトルシニアと言うシニアリーグに所属するチームに入部。高校野球をするためにもいち早く硬式球に触れておきたいという理由から始めたことですが、ここで佐々木は軟式よりもボールが飛ぶ硬式野球に早くから触れることで守備面で飛躍的に向上。また、伝統的に厳しい練習で知られるシニアチームに入ったことで佐々木自身も鍛えられたことは間違いありません。
高校野球をするにあたり、佐々木が進学したのは中央学院高校。1つ上の代には後に読売ジャイアンツなどで活躍する古城茂幸らが在籍し、監督も甲子園出場経験を持つ荒井致徳を据えるなど、高校野球の強い千葉の中にあって、これからが注目されるという新鋭校でした。
無名で終わった高校時代
中央学院高校に進学した佐々木勉ですが、当時は身長こそ高いものの、非力な打撃が目立ちました。そのため守備で活路を見出します。180センチを優に超える長身の選手でありながら俊敏な動きが目立ち、さらにリトルリーグで鍛えた強肩も大きなポイントに。ショートとしてレギュラーを掴み、甲子園大会への出場を目指す日々が始まりました。
佐々木がいた高校3年間のうち、最も甲子園に近づいたのが2年生時の夏。この年は先輩の古城茂幸とのコンビネーションが冴え、チームも勝ち進んでいきましたが、準決勝で成田高校と対戦。ここでチームは打ちあぐねる機会が目立ってしまい、惜しくも2対3で敗戦。ベスト4止まりで終わってしまいました。
新チームに替わり、自分たちの代になったことで佐々木は念願の甲子園大会を再び目指しますが、古城の抜けた穴はやはり大きなもの。どうしてもあと一歩勝ち進むことができずにいました。
そして迎えた3年生の夏。最後のチャンスに賭けた佐々木でしたがこの年の県大会では長打力が開花。2回戦目の船橋北高戦で佐々木は豪快な本塁打を放ち、観客や集まったスカウトたちの度肝を抜きました。しかし、結局この年も勝ち進むことができず、佐々木の3年間は全国大会には遠く及ばないまま終わってしまいました。
三菱ふそう川崎の初代優勝メンバーに
高校を卒業した後も佐々木勉は野球をすることを望みます。しかし、全国大会に出場したならばまだしも、無名校で県大会止まりの選手にプロからのスカウトが来ることはあまりなく、続けるとしたら大学に進学するか、社会人野球の選手としてプレーするかのどちらかに絞られます。その中で佐々木が選んだのは社会人への道。実業団選手としてプレーすることを狙い、高校卒業後の98年、三菱ふそう川崎に入社します。
高校時代とは異なり、当時の三菱ふそう川崎は強豪として知られていたチームで、都市対抗野球大会にも幾度となく出場していました。そのため、1年目から佐々木がレギュラーを取ることはなく、台頭し始めたのは2年目の99年から。堅実な内野守備を評価されていきました。この頃から打順は6番などの下位打線を打つことが多く、あくまで守備の人と言う印象が強くなっていきます。
そして、自身のキャリアで初の優勝を飾ったのが2000年。その大会とは社会人野球の華型としても知られる都市対抗野球大会でした。3年目を迎えすっかりレギュラーに定着した佐々木は攻守に完璧な動きを見せてチームの勝利に貢献。強豪として知られた三菱ふそう川崎においても初優勝となり、記念すべき初代優勝メンバーの一人として名を連ねることになりました。
30代後半にして、社会人野球の第一人者に
佐々木勉はその後も三菱ふそう川崎の主力選手として活躍。2003年には2回目となる年対抗野球大会の優勝メンバーに。この時の佐々木は本職のショートではなく、サードやセカンドを守ることが多かったのですが、堅実な守備とプロ顔負けの体格から生み出される長打でチームを支えました。また、この頃からキャプテンシーの高さを駆使して、チームを鼓舞する主将としての役目も増えていきました。
そんな佐々木にプロからも声はかかりましたが、佐々木はこれを固辞。プロ野球に憧れがないわけではなりませんが、それ以上にここでの野球を大切にしていたということがわかります。さらにこの後、2005年にも優勝を経験しますが、チームが2009年に休部になると、佐々木は活動場所を求めて三菱日立パワーシステムズに移籍。さらに三菱重工長崎へと移るなど、30歳を超えてもなお、社会人選手の第一線をひた走っています。
そして2017年、三菱重工長崎と三菱日立パワーシステムズが統合することに。この時、チームのキャプテンに選ばれたがのどちらのチームにも在籍していた佐々木。
大ベテランのキャプテンということで重責を担うことになりましたが、チームをまとめ上げて、見事の都市対抗野球大会に出場するという活躍を見せました。