名前 | 藤井彰人(フジイアキヒト) |
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生年月日 | 1976年6月18日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府東大阪市 |
プロフィール | 小学5年の時、内野手から捕手に転向し、松井稼頭央(現・西武)投手とバッテリーを組んだ経験を持つ。近大附属を経て、近畿大学で頭脳派捕手として活躍、今井圭吾や清水章夫ら数々の好投手の力を引き出した。打撃力にも定評があり、大学で3番に定着。1996年から関西学生リーグでベストナインを4回受賞。
1997年のインターコンチネンタルカップや1998年のハーレム大会、世界選手権で全日本の正捕手を務めたほか、全日本大学選手権決勝の東海大戦でも好リードを見せた。 1999年ドラフト2位で近鉄に入団。入団後3年間は、怪我もあって合計37試合出場に留まる。2002年から、正捕手争いに参加し、2004年には的山哲也に代わって正捕手候補となる。 同年オフにプロ野球再編問題で、分配ドラフトを経て新球団の楽天へ移籍。2005年から2シーズン、楽天の正捕手を務める。嶋基宏の台頭で徐々に正捕手の座を奪われると、2010年オフにFA宣言して阪神に移籍。 城島健司が怪我で出場できない中、3シーズンにわたって正捕手を務める。2014年からも2シーズン、鶴岡一成と併用されて2015年オフに現役引退。阪神球団に残り、2016年は出向で独立リーグでバッテリーコーチ。2017年からは阪神ファーム育成コーチに就任。 通算成績は1,073試合、2,395打数565安打、10本塁打、173打点、18盗塁、打率.236。最優秀バッテリー賞1回。近代付属高卒、近畿大学、170センチ、75キロ、右投右打 |
甲子園出場、大学5冠とアマ球界で輝かしい実績を記録
藤井彰人は大阪府東大阪市で生まれ、小学4年生から野球を始めます。ボーイズリーグ・若江ジャイアンツでは内野手を務めていました。同チーム中学部で、捕手に転向し一時は1学年上の松井稼頭央とバッテリーを組み、自身3年生時には全国大会に出場します。近代付属高校進学後、チームは夏の甲子園に出場しましたが、1年生藤井の出番はありませんでした。しかし、2年になると金城龍彦とバッテリーを組んでチームの中軸にのし上がります。同年の府予選では決勝戦まで進み、松井が投手を務めるPL学園と対戦し、逆転で勝利を収めます。甲子園初戦でも本塁打を放つなど快勝しましたが、2回戦で常勝学院に敗れました。
甲子園出場はこの1度のみに終わり、高校卒業後は近畿大学へ進学します。同期に二岡智宏、宇高伸次、1学年下に山下勝充ら精鋭が揃い、在学中8季のうち6季でリーグ優勝を果たしました。1997年春からはリーグ4連覇、そして同年はリーグ戦に加えて、全日本大学選手権、明治神宮大会、全日本アマチュア野球王座決定戦すべてを制する史上初の5冠を達成します。捕手ベストナインも5度受賞し、同年代の上原浩治、高橋由伸らとともに日本代表としても名を連ねました。
近鉄正捕手に手が届きかけるも、球団消滅という憂き目に遭う
1998年ドラフト会議では、近畿大学の最強メンバーが揃って上位指名されます。エースだった宇高伸次が近鉄バファローズ(1位)、二岡智宏が巨人(2位)をともに逆指名し、藤井彰人も近鉄から2位指名されて入団しました。ルーキーイヤーから15試合に出場して、捕手にとって重要な経験を摘みます。しかし、右膝靭帯断裂の怪我を負ったため、2年目は21試合、3年目はわすか1試合の出場に留まり、正捕手・的山哲也を脅かせませんでした。
怪我を克服すると2002年に53試合、2003年に73試合と徐々に出番を増やします。若きエースに就任した岩隈久志とは相性がよく、専属捕手として貢献しました。2004年は、的山の出場機会を初めて上回り、岩隈の最多勝もアシストします。同年、キャリアハイの86試合に出場しましたが、プロ野球再編問題によってオフに近鉄球団が消滅するという事態が起こりました。
分配ドラフトで楽天に移籍すると、初代正捕手の座を獲得
近鉄がオリックスに吸収され、新規球団楽天の発足にあたって、選手分配ドラフトが行われます。藤井彰人は、志願して移籍した岩隈久志とともに楽天で再びチームメイトとなりました。そして、新球団の開幕戦でもスタメンマスクをかぶり、エース岩隈の完投勝利に貢献します。第2戦目にも先発マスクをかぶりましたが、0-26という屈辱的な敗戦も経験しました。
それでも選手層の薄いチームにおいて、自身初めて正捕手を務め、キャリアハイの113試合に出場します。1年目、チームは勝率3割にも満たない惨敗を喫し、野村克也に再建が託されました。2年目は、野村克則との正捕手争いに勝利し、2年連続で100試合以上に出場します。シーズン打席も初めて300を越えるなど、レギュラーとして定着しました。
ルーキー嶋基宏が台頭し、徐々に正捕手の座を奪われる
2006年ドラフト会議で、楽天が嶋基宏を獲得すると、藤井彰人との激しい正捕手争いがスタートします。2007年、開幕マスクは藤井でしたが、ルーキー嶋はオールスターにファン投票選出されて、トータルの出場試合数でも後れを取りました。しかし、2008年はエース岩隈久志の最多勝(21勝)の活躍をサポートして存在感を見せます。リーグトップの盗塁阻止率.429も残して、初の最優秀バッテリー賞を受賞しました。
2009年、不調に怪我も重なると、楽天移籍後初の二軍降格を経験します。同年は、わずか35試合の出場に留まりました。2010年、チームの主砲・山崎武司とともに6年連続開幕スタメンとして出場します。しかし、その後は嶋に正捕手を奪われて、前年の出場試合すら下回る8試合出場に終わりました。
FAで阪神に移籍すると、城島健司に代わって正捕手就任
楽天での居場所を失った藤井彰人は、2010年オフに出場機会を求めてFA宣言します。すると、城島健司に続く捕手不在の阪神が手をあげて、初のセ・リーグ移籍が決まりました。城島は、前年メジャーから復帰して、全144試合に出場していましたが、オフの手術の影響で藤井に多くの出番が回ってきます。同年は城島の38試合をはるかに上回る99試合に出場するなど正捕手を務めました。
2012年は小宮山慎二の台頭、2013年にはFAで日高剛が加入と、ライバルが増えましたがチームの捕手最多出場を3年連続で達成します。2013年には、監督推薦で自身初のオールスターゲームにも出場しました。しかし37歳で迎えた2014年シーズン、開幕マスクを逃すとその後怪我で戦線離脱します。同年復帰して、通算1000試合出場を達成しましたが、ルーキー梅野隆太郎、ベテラン鶴岡一成らにポジションを奪われて34試合出場に終わりました。
通算17年の現役生活を終えて、阪神で指導者生活スタート
2015年、併用ながら捕手では最多となる71試合に出場してベテランらしさを見せます。しかし、翌シーズンには40歳という年齢的なことを理由に、同年限りで引退を決意しました。小柄ながらも、3球団で捕手を務めた藤井彰人は、そのまま球団に残ります。2016年には出向という形で、独立リーグ・福井ミラクルエレファンツのバッテリーコーチを務めました。期間満了で阪神球団に復帰すると、2017年からはファーム育成コーチに就任しています。