名前 | 水野雄仁(ミズノカツヒト) |
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生年月日 | 1965年9月3日 |
国 | 日本 |
出身 | 徳島県阿南市 |
プロフィール | 小学生から野球を始めて、池田高校に進学。2年夏は5番左翼手として出場して甲子園優勝。3年春は4番エースとして、2季連続優勝。3季連続優勝を狙った3年夏、PL学園の1年生KKコンビに準決勝で敗れてベスト4に終わる。
1983年ドラフト1位で巨人に入団。2年目に肩を故障。1986年にプロ初勝利を含む8勝を挙げて頭角を現す。1987年先発として初の二桁10勝をマーク。 1990年からはリリーフ専門となり、1991年はクローザーとして11セーブ。1992年右肘手術。1993年、キャリアハイの43試合に登板して、防御率2.82と復活。 以後、右肘痛に悩み、1996年シーズン終了後引退。1997年「プロ野球ニュース」に歴代最年少の解説者として出演。1999年巨人コーチに就任。2001年シーズン終了後退任。 通算成績は265試合、39勝29敗17S、防御率3.10、660回0/3、519奪三振。池田高卒、右投右打、178cm、82kg |
池田高校時代、「阿波の金太郎」と呼ばれ2季連続甲子園優勝
水野雄仁は、徳島県阿南市に生まれ、小学生1年生から野球を始めます。3年時の1974年、地元池田高校が、「さわやかイレブン」と呼ばれるわずか11人の部員でセンバツ準優勝を成し遂げました。その後、高校野球で金属バットの使用が認められると、池田高校・蔦文也監督はバッティング練習を重視して攻撃型のチームを作ります。1979年には、夏の甲子園でも準優勝を実現していました。
1981年、1年先輩の畠山準の背中を追って、池田高校に進学します。ウエイトトレーニング中心に力を付けると、2年夏には4番でエース畠山の後を打つ5番左翼手として甲子園で旋風を巻き起こしました。準々決勝の早稲田実業戦では、甲子園5季連続出場の荒木大輔から本塁打を放ち、聖地初マウンドも経験します。山びこ打線として恐れられた池田高校は、強打で決勝戦も圧勝して初優勝を飾りました。
2年秋からの新チームでは4番エースとして、徳島県大会、四国大会を制します。センバツでは全5試合で3完封、トータル34得点と投打で圧倒して、甲子園2季連続優勝を実現しました。愛くるしいキャラクターから「阿波の金太郎」と呼ばれ、夏も無難に甲子園出場を決めて、史上初の3季連続優勝を目指します。順調に勝ち上がり、3回戦の広島商業戦では頭部死球を受けるというアクシデントがありました。それでも準々決勝では完投勝利し、準決勝のPL学園との対戦を迎えます。桑田真澄、清原和博の1年生KKコンビとのマッチアップは、異常な盛り上がりをみせましたが、この試合で甲子園の主役が入れ替わることになりました。水野は桑田含めて3本の本塁打を浴び、自慢の打線も5安打完封されます。PLは決勝戦も完勝して優勝し、KKコンビによる伝説をスタートさせました。
巨人1位入団も、2年目に肩を故障してシーズンを棒に振る
水野雄仁は、甲子園通算9勝1敗、打者としても打率.493、3本塁打の実績で、ドラフト上位指名候補となります。しかし、巨人以外はプロに行かないと、事実上の逆指名を敢行しました。他球団が指名を見送ったため、巨人は槙原寛己、斎藤雅樹に続く3年連続高校生投手の1位指名が決まります。本来は、じっくりファームで育成という方針でしたが、一軍のあまりの不調にカンフル剤として、5月にプロ初登板しました。
18年ぶりの高卒ルーキー登板は、大きな話題となりましたが、7試合の登板で勝敗無しの防御率6.75に終わります。以後、ファームで150キロを越えるストレートを武器に順調にプロ人生を歩んでいました。しかし、2年目を迎えるキャンプで肩関節の亜脱臼し、手術を余儀なくされます。2年目の1985年シーズンは丸々棒に振ることになりました。
先発投手として二桁勝利し、王貞治監督の初優勝に貢献
1年のリハビリ期間中に新球フォークを覚えると、1986年からは先発ローテーション投手の仲間入りを果たします。同年、プロ初勝利を含む8勝をマークすると、1987年には自身初の二桁10勝で、王貞治監督の初優勝に貢献しました。続く西武ライオンズとの日本シリーズでは、第1戦、3戦とリリーフで無失点に抑えます。しかし、2勝3敗で迎えた第6戦、先発マウンドを託されましたが4回2失点で敗戦投手となりました。
リリーフとして近鉄弱点を見出し、奇跡の逆転日本一に貢献
1988年も前半戦は好調で、初めてオールスターにも選出されます。第3戦には、選手がいなくなり、延長12回のチャンスで代打起用されて、サヨナラ犠飛を放ちました。同年後半戦から不調に終わると、1989年は豪華先発投手陣の枠に入れず、リリーフ登板が多くなります。日本シリーズでは、あまりクローズアップされませんでしたが、水野雄仁の投球が結果的にチームを救いました。
近鉄バファローズが、第1戦から連勝スタートして、第3戦も先発・宮本和知がKOされて3連敗し、絶対絶命の窮地に陥りました。しかし同試合、水野は4回から2番手で登板すると、打者9人から5三振を奪うなど3回をパーフェクトに抑えます。このピッチングで、巨人首脳陣は近鉄打線が縦の変化に弱いことを見抜きました。第4戦に、香田勲男が先発すると、スローカーブを軸に見事な完封勝利を挙げます。息を吹き返した巨人は、その後4連勝して8年ぶりの日本一を達成しました。
リリーフとして活躍するも、右肘故障が仇となり現役引退
1990年からはリリーフ専門となり、1991年には木田優夫に代わって、クローザーに指名されます。すると適正を見せて、防御率1点台で11セーブをマークしました。1992年、右肘を故障して一軍登板無しに終わると、再びメスを入れます。翌年キャリアハイの43試合に登板し防御率2.82と復活しましたが、右肘の遊離軟骨に苦しむようになりました。その後、痛みと戦いながら投げ続けましたが、1996年の登板は10試合に終わり、同年で引退を決意します。日本シリーズでは、全5戦中の3戦に登板しましたが、花道を飾れませんでした。
メジャーリーグ挑戦で現役復帰するも、夢破れて正式引退
現役引退して解説者に転身していましたが、突如メジャーリーグでの現役復帰を目指します。ドミニカウィンターリーグで日本人初の勝利投手になりましたが、さすがにメジャー昇格は実現できませんでした。その後、1999年から、巨人投手コーチに就任します。2000年の日本一に貢献して、2001年に退団すると、以後は野球解説者として過ごしています。