名前 | 篠原貴行(シノハラタカユキ) |
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生年月日 | 1976年9月7日 |
国 | 日本 |
出身 | 福岡県福岡市東区(生まれは広島県広島市) |
プロフィール | 福岡市の八田小4年で野球(外野手)を始め、多々良中央中ではボーイズリーグ・土井ベアーズで投手転向。沖学園で2年春からエース就任も甲子園出場経験なし。1995年、三菱重工長崎入社、社会人No.1の左腕として活躍。
1997年ダイエーを逆指名、1998年ドラフト2位で入団。1999年不敗神話を誇るセットアッパーとして活躍し、最高勝率タイトル、さらにダイエーのリーグ優勝、日本一に貢献。2000年も2年連続チーム最多勝の9勝で連覇に貢献。2003年は後半にクローザーを務めて、4年ぶりの日本一に貢献。 2004年、左肩故障でほぼ2シーズンを棒に振る。一時復活を見せるも、2008年左肘を故障。2009年一軍登板無しに終わり、戦力外通告。2010年からは横浜に移籍。移籍2年目に、フォームを取り戻し67試合、防御率1.84と復活。同年は37試合連続無失点記録も樹立。しかし、2012年防御率を悪化させると、2013年再び左肘を故障し、引退を決意。 2014年からは横浜一軍投手コーチに就任。 通算成績は496試合、33勝19敗17S、61ホールド、防御率3.28、468回2/3、372奪三振。最高勝率1回。沖学園高卒、178センチ、73キロ、左投左打 |
全国舞台に顔を出さずとも、剛球左腕投手として頭角を現す
篠原貴行は、広島県広島市で生まれ、福岡県福岡市にて育てられます。野球との出会いは、幼少の頃から患う喘息克服のため、両親から勧められたものでした。中学時代も、ボーイズリーグ・土井ベアーズで野球を続けて、沖学園高校に進学します。当時、一度も甲子園出場はなかったものの、篠原が中3時は初めて県大会決勝に進出し、わずか1点差で敗れていました。2年春からチームのエースに就任し、同校初の甲子園出場を目指します。しかし、2年夏は3回戦、3年夏は4回戦で敗れました。
卒業後、三菱重工長崎へ進んで社会人野球をスタートさせると、投手として大きく成長します。都市対抗含めた全国のひのき舞台で活躍することはありませんでしたが、左腕から繰り出す速球で大きく名を馳せました。
逆指名でダイエー入団し、新人から鉄腕リリーフとして活躍
地元福岡を本拠地とする福岡ダイエーホークスは、篠原貴行を高く評価します。そして1997年ドラフト会議では、ダイエーを逆指名して入団しました。投手力に弱点があったチームは、同じく逆指名1位で永井智浩を獲得して強化にあたります。篠原は、永井よりも早く開幕第4戦にリリーフでプロ初登板して、3回1/3を無失点と上々のデビューを飾りました。その後、ホークスのリリーフに定着すると、チーム2位の51試合に登板し2勝4敗3セーブで、ルーキーながら大きく貢献します。同年は、チームの連続Bクラスが20年でストップしました。
不敗神話を持つリリーフとして、ダイエー初優勝を牽引
1999年、チームの投手コーチに尾花高夫が就任すると、下馬評では低かったダイエーがパ・リーグのペナントレースをリードします。エース工藤公康はさすがの投球を続け、それに2年目コンビの永井智浩、星野順治が先発として初の二桁勝利をマークしました。先発要員のペドラザをクローザーに抜擢するとこれがフィットし、篠原貴行がセットアッパーとして勝ちゲームを確実に拾っていきます。また同点やビハインドの場面で登板すると、不思議と打線が爆発して、篠原に勝利投手が就くようになりました。
開幕から無敗のまま勝利だけが積みあがり、篠原の不敗神話が誕生します。33年ぶりに首位ターンを飾ると、そのまま13勝無敗で優勝決定戦を迎えました。この試合でも同点で篠原がマウンドに上がると、不敗神話ぶりが発揮します。すぐさまダイエーが勝ち越すとペドラザで逃げ切り、ダイエーとしての初優勝が決まりました。本拠地最終戦で初めて黒星がつきましたが、日本シリーズでも3試合に登板して初の日本一に貢献します。同年はチーム最多勝かつ最高勝率のタイトルも手にし、最高のシーズンを送りました。
その後も貴重なリリーフとして、2度の優勝に大きく貢献
2000年、エース工藤公康がFA移籍するも、強力打撃陣と鉄壁のリリーフでリーグ連覇を飾ります。吉田修司(69試合)、渡辺正和(60試合)、篠原貴行(57試合)と左の中継ぎ陣がフル回転しました。同年、先発で二桁勝利達成者がゼロでしたが、篠原は9勝(他3名)を挙げて2年連続チーム最多勝をマークします。ON監督対決で盛り上がった日本シリーズでは、チームは逆転で敗れました。
2001年に先発転向、新球習得チャレンジするも、フォームを崩して絶不調に陥りました。2003年当初は故障で前半戦を棒に振りましたが、後半にクローザーとしてチームに復帰します。同年、100打点カルテットを構成する超強力打線、絶対的エース・斉藤和巳の存在など投打に圧倒し、篠原も10セーブで一気に日本一を奪還しました
故障、解雇通告を経て、横浜に移籍するも不調が続く
2004年、左肩故障を克服するため、手術に踏み切ります。同年はフルシーズンを棒に振り、翌2005年もわずか1試合の登板に終わりました。2006年は、チームに復帰して50試合登板しましたが、以降出場機会を減らします。2008年に左肘を故障すると、2009年の登板は一度もなく、オフには戦力外通告を受けました。2010年から、尾花高夫が監督に就任した横浜ベイスターズへ移籍します。怪我明けの初年度は、気合が空回りして防御率11.70というキャリアワーストの数字を叩き出しました。
横浜でセットアッパーとして復活するも、故障が響き引退
かつて好調だったときの篠原貴行を知る尾花高夫は、的確なアドバイスで復活に導きます。2011年シーズンは、開幕からリリーフに定着して圧巻の投球を続けました。夏場からはさらに一段ギアを挙げて、37試合連続無失点を達成するなど左のセットアッパーとして重宝されます。リーグタイ記録目前で失点しましたが、同年はチームトップの67試合に登板して、1勝17ホールド、防御率1.84というほぼ完璧なピッチングで復活を印象付けました。
翌年も50試合に登板して16ホールドを積み重ねましたが、防御率4.91と大きく数字を落とします。すると2013年には、再び左肘を故障したため、開幕からリハビリを余儀なくされました。シーズン後半になっても登板するまでに回復できず、同年での現役引退を決意します。500試合登板まであと4試合でしたが、イースタンリーグでの登板を最期にグラブを置きました。引退後は、そのまま横浜に残り、一軍投手コーチとして指導者生活をスタートさせています。