名前辻武史(ツジタケシ)
生年月日1979年6月12日
日本
出身石川県金沢市
プロフィール星陵高校3年春にセンバツ甲子園出場するも初戦敗退。

1997年ドラフト5位でダイエーに入団。ファームで俊足の外野手として多くの出場を重ねる。しかし、打撃が課題でファーム生活が丸4年続く。5年目の2002年、シーズン終盤に一軍初出場して初安打も記録。

2006年からは、守備力を武器に外野のスーパーサブに就任。同年から、34試合、54試合と徐々に増やすと、2008年はキャリアハイの87試合に出場。同年は打率.274、8盗塁と特長を生かすもチームは最下位に沈む。2009年は23試合、2010年は一軍出場ゼロに終わり、オフに戦力外通告。

2011年、独立リーグ・高知ファイティングドッグスのコーチ就任。2017年ベースボール・チャレンジ・リーグ・栃木ゴールデンブレーブスの監督就任。

通算成績は267試合、329打数73安打、1本塁打、31打点、10盗塁、打率.222。星稜高卒、177センチ、77キロ、右投右打

名門・星陵高校で甲子園出場するも、校歌を歌えずに終わる

辻武史は、石川県金沢市に生まれ、地元の名門・星陵高校に進学します。1学年上に好投手・山本省吾がおり、自身1年夏に甲子園出場しました。本戦でも2年生エース山本は、次々と強豪を蹴散らして石川県勢初の決勝まで駒を進めます。帝京高校に敗れて準優勝でしたが、1年生の辻には出番がありませんでした。

しかし秋季大会からは、チームの1番打者としてレギュラー出場します。山本を中心に県大会優勝しましたが、北信越大会準決勝で敗れて翌春のセンバツ出場を逃しました。2年秋には北信越大会準優勝で3年春にセンバツ出場を決めます。本戦では、当時名を馳せていた川口知哉率いる平安高校と初戦でぶつかりました。3-3の終盤8回裏に決勝点を奪われると、反撃できずに敗れます。雪辱を期した3年夏は、3回戦で敗退して、甲子園で1勝をあげることができませんでした。

ダイエー入団後は、ファームながら主力外野手として出場

1997年ドラフト会議では、川口知哉に4球団が1位指名するなど大注目されます。福岡ダイエーホークスは、王貞治監督就任後3年間で優勝できず、弱点とされていた投手力強化に走りました。逆指名2名含む上位4名すべてで即戦力候補の投手を指名し、5位でようやく辻武史など高校生野手を指名します。しかし当時外野手レギュラーには、秋山幸二、村松有人、柴原洋などが君臨していたため、まずはファームスタートとなりました。

それでもファームで、チーム最多の84試合に出場するなど、俊足の外野手として重宝されます。翌年も全100試合中の90試合に起用されて、11盗塁をマークしました。しかし2年連続で打率2割そこそこと、打撃に課題を残します。3年目の2000年こそ、川崎宗則、吉本亮とともに規定打席に到達させて打率.256をマークしましたが、4年目は再び打率.223と課題を克服できない日々が続きました。

豊富な外野手レギュラー陣を前に、なかなか一軍定着できず

プロ5年目の2002年、ファームで打率.270台をキープさせると、終盤に初めて一軍昇格します。その後先発出場した際には、プロ初安打を放ちました。一軍定着したいところでしたが、その後も、主戦場はファームとなります。2002年限りで、キャプテン秋山幸二が引退しましたが、2003年のダイエーは、100打点カルテットをそろえるダイハード打線で4年ぶりの日本一を奪還しました。当時の外野手は、村松有人、バルデス、柴原洋らがいずれも打率3割を超える中軸として活躍しており、辻武史の出番はわずか17試合にとどまります。2004年は、32試合に出場機会を増やしましたが、打率.095と全く貢献できませんでした。

徐々に一軍出場を増やし、チームのスーパーサブにのし上がる

2005年の一軍出場はわずか1試合に終わりましたが、2006年からは守備範囲の広さで存在感を示していきます。同年、ファームでも打率をあげると、守備固めを中心に一軍試合に34試合出場して、初本塁打、初盗塁もマークしました。2007年は、二軍出場27試合、一軍出場54試合と、初めて一軍出場が上回ります。打率は.200と打撃での貢献は出来ませんでしたが、外野のスーパーサブに就任しました。同年のクライマックスシリーズ第1ステージでは、第2戦に守備固めで出場してチームの勝利に貢献します。しかし、当時のホークスは短期決戦に滅法弱く、実に4年連続でプレーオフ敗退を喫しました。

2008年は、大村直之や多村仁などが故障離脱したため、先発出場チャンスも増やします。課題だった打撃でも打率.274と克服し、8盗塁と自慢の足でも特徴を披露しました。同年は、キャリアハイの87試合に出場し、一軍打席数も初めて100打席を越えます。当然、二軍出場はわずか12試合に減り、一軍二軍を行き来していたエレベーター生活を送ることなくシーズンを過ごしました。しかし、軒並み主力が数字を落としたこともあって、チームは大きく負け越します。リーグ最終戦で楽天に敗戦したことで、12年ぶりの最下位に沈み、王貞治監督も14年という長期政権にピリオドを打ちました。

一軍出場機会を失い13年のプロ生活を終えて、指導者転身

2009年、長谷川勇也がレギュラーに定着、さらに新外国人オーティズも加入と外野手レギュラー争いが白熱します。元レギュラーだった柴原洋さえも控えになり、辻武史も23試合出場と一気に出番を減らしました。2010年には、9年ぶりに一軍出場ゼロに終わると、逆にチームは7年ぶりにパ・リーグを1位通過します。同年オフには、戦力外通告を受けて、13年間のプロ生活に別れを告げました。

引退後は、四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスのコーチに就任します。1シーズンで退団しましたが、2017年からはベースボール・チャレンジ・リーグ・栃木ゴールデンブレーブスの監督に就任しました。6年ぶりの球界復帰には、ともにホークスで戦った宮地克彦、金無英らも同チームのコーチとして新監督を支えています。


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