名前河内貴哉(カワウチタカヤ)
生年月日1982年1月6日
日本
出身京都府八幡市
プロフィール小学3年から野球を始める。杉並リトル、シニア時代を通じて投手一筋。中学3年の時、シニア全国大会3位となり、ベストナインに選ばれる。国学院久我山高に進学後、1年夏の大会に登板、秋にはエースとなり注目を浴びる。2年春の試合中に肩を痛めるが、1999年5月復帰。同年夏の都大会では144キロの速球を持つ東京No.1左腕として活躍。

2000年ドラフト1位で広島に入団。同年5月対巨人戦でプロ初勝利を挙げる。貴重な先発左腕として毎年チャンスを与えられるも、4年間で6勝に留まる。2004年は、初めてローテーション投手を1年守り、チーム2位の8勝をマーク。

2005年から不調に陥ると、左肩を故障し手術敢行。2008年からリハビリで2シーズン登板無しに終わると、戦力外通告を受けて育成選手として再契約。

2012年5月に、支配下選手登録されると一軍で中継ぎとして復帰、2013年は21試合連続無失点を記録するなど、キャリアハイの34試合に登板。しかし2014年から一軍登板機会が減り始め、2015年オフに現役引退。2015年12月からは広島の一軍広報に就任。

通算成績は166試合、16勝28敗0S、23ホールド、防御率5.06、356回0/3、299奪三振。国学院久我山高卒、186センチ、80キロ。左投左打

本格派左腕として甲子園を目指すも、西東京大会決勝で敗れる

河内貴哉は、京都府八幡市で生まれ、幼少の頃に東京都杉並区に転居します。そして、小学3年生から杉並リトルに所属して野球を始めました。当時から投手を務めると、シニア時代には全日本選手権3位、ジャイアンツカップ準優勝など実績を積み上げます。國學院久我山高校に進学すると、1年夏から公式戦に抜擢されるようになりました。しかし2年春に故障を負い、夏予選では登板することが出来ず、チームも準決勝で敗れます。秋も早くに敗退したため、センバツ出場のチャンスも掴めませんでした。

3年になるとようやく復調し、剛速球左腕として最期のチャンスに全てを賭けます。順調に西東京大会を勝ち進み、前年敗れた準決勝でも、自ら本塁打を放ち、投げても7回を2安打完封して決勝戦までたどり着きました。決勝でも2試合連続本塁打を放つなど、5回終わって4-0とリードします。しかしその後、本塁打を浴びるなど追いつかれて延長戦に突入しました。継投でつないだ日大三校に対して、河内はたった一人で投げぬきます。しかし、延長12回表に痛恨の2失点が決勝点となり甲子園出場を逃しました。

広島期待の1位入団も、ルーキーイヤーはわずか1勝に終わる

甲子園出場こそ逃しましたが、180センチを超える身長から140キロ台の速球に切れ味鋭い変化球を持つ左腕は、1999年ドラフト会議で大注目されます。河内貴哉自身は、東京六大学進学を目指していましたが、広島、近鉄、中日と3球団が1位指名で競合するという高評価を受けました。甲子園出場経験のない高校生投手の1位競合は、江夏豊以来33年ぶりの快挙となり、広島が交渉権を獲得します。そして、同じ左腕として148勝138セーブの大記録を残した大野豊の背番号24が与えられました。

当時の広島は、同年まで2年連続Bクラスに転落し、暗黒時代に足を踏み入れます。左腕先発不足が続いていたため、高卒ルーキーとはいえ河内に大きな期待をかけました。そして、シーズン開幕1ヵ月後に、先発としてプロ初登板を迎えます。5回2失点とまずまずのスタートを飾ると、3度目の先発で巨人を7回1失点に抑えてプロ初勝利を手にしました。7月にはフレッシュオールスターの先発に抜擢されると、3回を無失点に抑えて勝利投手&MVPを獲得します。しかし、その後一軍で勝利を積み重ねられず、ルーキーイヤーは1勝に留まりました。

4年間で6勝に終わり、広島の課題・左投手不足を解消できず

2年目はファームスタートとなり、夏場に先発として一軍で投げるようになりましたが大きく打ち込まれます。8試合で2勝3敗、防御率7.36と首脳陣が求める結果を残せませんでした。その後も、先発として期待され、ファームでローテーションをこなしながら一軍の谷間の先発などで登板します。高い奪三振率を誇りましたが、防御率は5点台が続くなど、入団4年間でわずか6勝に終わりました。

5年目に初めてローテーション投手を全うして、8勝をマーク

プロ入り5年目の2004年、初めて開幕ローテーション投手としてシーズンをスタートさせます。規定投球回には届きませんでしたが、ベイル、黒田博樹とともに先発3本柱として、1年間ローテーションを守りました。防御率は5.72と改善できませんでしたが、チームの2位の8勝(9敗)をマークします。同年は、初めてオールスターゲームにも出場しました。

不調に故障が重なり戦力外通告を経て、育成選手に陥落

未完の大器がいよいよ花開くと思われましたが、一転して長いトンネルに入ります。2005年は、シーズン前のキャンプから不調が続き、フォームを見失ってしまいました。一軍登板はなくなり、二軍登板もわずか15試合にとどまります。翌年からサイドスローも試し、中継ぎ登板もこなすようになりましたが、今度は故障が待っていました。

2008年に左肩関節唇及び腱板部の修復手術を受けたことで、そこから2シーズン全てを棒に振ります。球団からは戦力外通告を受けましたが、復帰を期待されて育成選手としてリスタートを余儀なくされました。

支配下選手として中継ぎ復帰するも、未完の大器のまま引退

約2年間を背番号124の育成選手として過ごすと、2012年はファームでようやく結果を残します。すると同年5月に支配下選手として復帰して、再び背番号24を背負いました。さらに一軍に昇格してもリリーフとして、チームに貢献します。28試合に登板して、6年ぶりの勝利投手となるなど防御率2.08をマークしました。

2013年も開幕一軍でスタートすると、序盤に21試合連続無失点を記録するなど好調を維持します。怪我で一軍二軍を往復しましたが、キャリアハイの34試合に登板しました。しかし、2014年には厳しい一軍中継ぎ投手陣に食い込めず、12試合に登板機会を減らします。そして2015年は、1試合登板に終わり、ついに戦力外通告を受けました。背番号の先輩・大野豊のようなチームの中心を担う左腕投手として期待されましたが、通算16勝で選手生活に区切りを付けます。引退後は、そのまま球団に残り一軍広報として慣れない業務をこなしています。

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