吉見祐治について

名前 吉見祐治
生年月日 1978年5月21日
日本
出身 和歌山県和歌山市
プロフィール 小学3年で野球を始める。星林高を経て、東北福祉大に進学し、エースとして活躍。平成12年4カ国・地域国際野球大会で日本代表入り。同年日米大学野球第2戦で、日本人としては10年ぶりの完封勝利を果たす。同年シドニー五輪は4位。13年ドラフト2位で横浜に入団。140キロ台の速球と90キロ台のシンカーを持つ本格派。188センチ、86キロ。左投左打

期待の即戦力投手として横浜を逆指名入団

吉見祐治が野球を始めたのは小学3年生のころでした。当時から左利きだった吉見はそれだけでもチーム内で注目されましたが、投打ともにセンスが高く、すぐエースとして台頭するように。しかし、チーム内で目立っても野球のレベルが全体的に高い関西圏ではさほど知られることはなく、高校進学時においては名門校から声はかからず、地元の公立校である青林高校に進学します。

高校時代も吉見はエースとして起用されますが、当時はプロ注目の投手と言うわけではありませんでした。甲子園大会などの全国大会にも無縁の存在で、中でも同じ和歌山県内の南部高校に所属していた濱中おさむとの相性が悪く、場外本塁打をかっ飛ばされるなどの滅多打ちに遭うなど、散々な経験をしています。

吉見がプロからも注目されるようになったのは東北福祉大学への進学後。佐々木主浩、斎藤隆、そして金本知憲と名選手を多数輩出してきた全国レベルの強豪大学で、吉見の世代も歌藤達夫、洗平竜也と後にプロ入りする選手が在籍していました。

その中でも吉見はエースとして活躍していましたが、プロのスカウトに最も響いたのは00年の4ヵ国地域国際野球大会での日本代表入り。そして日米大学野球選手権で日本人投手として10年ぶりの完封勝ちを収めました。

これら一連の活躍によって吉見はこの年に行われたシドニーオリンピックの野球日本代表に選出。プロ解禁となった大会でアマチュア選手として参加する快挙を果たしました。

即戦力投手として注目される存在となった吉見ですが、契約を決めたのが横浜ベイスターズでした。当時は逆指名制度があったため、横浜が吉見を口説き落とし、ドラフト前に吉見は横浜ベイスターズを逆指名。これにより吉見はドラフト2位で横浜入りを果たしました。

最下位に沈むチームで唯一の二桁勝利をマーク

横浜ベイスターズの吉見祐治に対する期待は高く、背番号「22」を与えました。横浜の22番と言えば、なんといってもハマの大魔神と称された名クローザーの佐々木主浩。東北福祉大学の先輩である佐々木同様にチームの顔になってほしいという思いがその番号からも伝わってきました。

しかし、ルーキーイヤーの01年は左肩の故障もあり、登板数はわずか7試合のみ。0勝1敗、防御率は9点台とズタボロな上、先発できたのも1回だけと言う期待ハズレに終わりました。

吉見が意地を見せたのは02年。この年は左肩の故障からも回復し、先発ローテーション入り。27試合に登板して11勝8敗、防御率3.68という好成績を残しました。マシンガン打線を担った選手、そして投手陣がこぞって退団したことでチームは崩壊し、最下位に転落しましたがその中で唯一の二桁勝利を挙げる快挙を成し遂げました。新人王候補にも選出されましたが、惜しくも石川雅規に敗れるという形になりました。

これで横浜の左のエースとして台頭するようになり、03年には三浦大輔を差し置いて開幕投手に抜擢。山下大輔新監督の期待を一身に受ける形になりましたが、成績は3勝10敗と大きく負け越し。中でも阪神戦に弱く、3者連続本塁打を浴びるという屈辱を受けることに。ちなみにこの時の阪神3連発のひとりを担ったのは高校時代から苦手にしていた濱中おさむでした。

意外な才能で注目される

04年、吉見祐治は背番号を「21」に変更。と言うのもこの年から佐々木主浩がメジャーリーグから復帰したことで背番号を譲ることになりました。この年も先発で起用された吉見は7勝5敗と勝ち越しこそしましたが、安定感はほぼゼロ。完封勝利を収めるときもあれば、イニング序盤で滅多打ちに遭って降板するため、防御率は5点台と振るわないままでした。

その後、吉見は投手成績としては今一つな成績ばかりでしたが、このころからにわかに横浜ファンの間で話題になったのは吉見の打撃成績でした。というのも投手としては打撃に優れていた吉見は打撃面で意外な活躍が多く、投手として見限られたら打者転向したほうがいいんじゃないか?と冗談交じりに言われることもままありました。

大矢明彦監督に替わった07年はそれまでと役割を替え、ロングリリーフや先発ローテーションの谷間起用に変更。38試合に登板して3勝4敗とまずまずの成績の収めた上に完封勝ちを収め、さらには得意の打撃で猛打賞も経験するなど、ある意味吉見らしいシーズンを送りました。

しかし、その後の吉見はやはり今一つ。防御率は4点台以下に下がることはなく、打撃ばかりが目立つように。チームも暗黒期に突入したことで毎回のように負ける試合ばかり。先発陣が早々とKOされた試合にロングリリーフすることもよくあったため、中継ぎ投手にしてはイニング数を稼ぐことが増えていきました。

ロッテへのトレードで下剋上日本一のメンバーに

吉見祐治は10年シーズン途中、突如として千葉ロッテマリーンズへトレード。持ち味の打撃を生かせないパリーグへの移籍はマニアックなファンには残念に思えましたが、結果的に吉見の復活には役立ちました。この年の吉見は防御率こそいつも通りに5点台と振るいませんでしたが、6勝7敗という一定の成績を残し、さらに3年ぶりの完封勝ちも収めました。この活躍でロッテは3位に入りCS進出。下剋上日本一に繋がっていきました。

翌年も吉見は24試合に登板し、主に敗戦処理としての起用ではありましたが、3点台後半にまとめました。防御率3点台以内に収めたのはなんと02年以来、10シーズンぶりと言うところに好調さがうかがえました。

しかし、これが吉見の最後の輝きになりました。12~13年は2シーズンを合わせて13試合にしか投げられず、13年のオフには阪神タイガースへ移籍。その阪神では一度も一軍に上がることがなく戦力外通告を受けることに。これで吉見は現役引退を決意。その後、古巣である横浜の打撃投手として復帰し、現在に至ります。

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