加藤久について

名前 加藤久
生年月日 1956年4月24日
日本
出身 宮城県宮城郡
プロフィール 少年サッカー育ち。仙台二高では国体、インターハイに出場。昭和53年早大3年の時全日本サッカーチームの代表となる。55年読売クラブ(現・ヴェルディ川崎)に入り、58年を初め5度の日本リーグ優勝に貢献。59〜62年日本代表チーム主将を務める。62年プロ転向。同年10月ソウル五輪アジア東地区予選で中国との最終選に敗れた。この間、54年早稲田大学助手、59年講師、平成3年助教授に就任。教師、選手、著述と各方面で活躍。5年現役のまま、日本サッカー協会強化委員会副委員長に就任。同年7月Jリーグ・清水エスパルスに移籍。6年7月再びヴェルディ川崎へ。第2ステージ優勝、チャンピオンシップ優勝に貢献し引退。日本サッカー協会強化委員長となるが、8年3月退任。9年2月ヴェルディ川崎監督に就任するが、6月退任し、テクニカルディレクターとなる。10年11月退団。同年東京工業大学大学院に入学。12年湘南ベルマーレ監督に就任するが、同年11月解任される。愛称キュウちゃん。著書に「サッカー練習プログラム」「少年サッカーの指導」「うまくなるサッカー」、訳書に「図解サッカー」等がある

早稲田大学在学時に代表入りを果たす

加藤久が生まれたのは宮城県。当時はサッカーがさほど盛んだったわけではないですが、加藤は少年サッカーを始めるとすぐに頭角を現していきました。仙台第二高校時代にはサッカー部のエースとしてチームを引っ張り、なんと国体&インターハイの二冠を達成します。キャプテンシーにも優れた加藤は大学からもスカウトが殺到していましたが、加藤は推薦枠での大学進学ではなく、一般入試で早稲田大学を目指しました。

加藤が早稲田大学にこだわった理由として挙げていたのは当時のサッカー界のスーパースターである釜本邦茂。早稲田大学のスターだった釜本に憧れていた加藤は自分も同じところでやりたいという思いから猛勉強の末に早稲田大学へ進学。そして念願かなって75年に早稲田大学へ進学。サッカー部に入部すると、関東大学サッカーリーグや大学サッカー選手権など、数々のタイトルを獲得。その実力を満天下のもとに示しました。

また、加藤の実力は大学生たちの間だけでなく、実業団チームの選手たち以上。そのため、大学3年生だった77年には早くも日本代表に選出されていました。それだけの実力は選手だけに、大学卒業後の進路が注目されましたが、加藤は大学卒業後1年間は定職に就かず、卒業から1年たってから日本サッカーリーグの1部に所属していた読売サッカークラブに入団しました。

二足の草鞋を履いて、読売クラブ黄金期に貢献

加藤久が入団した読売サッカークラブは日本サッカーリーグの中でも屈指の実績を誇るチーム。数々のスター選手がいる中で加藤は入団初年度からレギュラーに定着し、スイーパーと呼ばれるポジションで守備の要を務めました。同時にシーズンオフには研究者としての活動も続行していました。

そもそも加藤がクラブ入団前に1年間のブランクを作った理由は「研究を続けたい」と言う思いから。実際に早稲田大学を卒業した後には筑波大学の大学院体育学研究科に進学。クラブ入団2年目の81年に修士課程を修了した後も本格的にサッカー選手一本ではなく、早稲田大学で助手としての活動と並行してサッカーをプレーするという異色の二刀流選手になりました。

サッカー選手としての加藤の実力は折り紙付きで、守備の要としてこの頃から始まった読売の黄金時代の中心選手に。加藤の入団以来、クラブは日本サッカーリーグで4度も優勝し、さらにサッカー界最大のタイトルとも言える天皇杯でも3回も優勝に導くなど、加藤なくして読売の躍進はあり得なかったとまで言わしめるようになりました。

一方で、加藤は代表選手としても活躍しましたが、このころの日本代表はいわゆる冬の時代。試合に出ても海外の代表たちにことごとく敗れるケースが多く、加藤が決めたシュートもほとんどが格下相手の試合でのもの。結局加藤は87年に代表から外れて行くようになりました。

現役選手ながら強化委員会に招聘される

加藤久は31歳の年を最後に代表入りしなくなりました。87年ですでに31歳とサッカー選手としてはベテランになっていましたが、4年後の91年、加藤は日本サッカー協会の強化委員会の一員に選出。現役選手、それもレギュラーを張っていた選手としては異例の抜擢でしたが、大学院で研究を続けていた加藤のキャリアが評価されての人選だったと言えるもので、後年には日本代表監督を務めることになるハンス・オフトやパウロ・ロベルト・ファルカンらの評価を下し、新たな代表監督を選ぶ立場にも就きました。

その一方で、93年にはJリーグが開幕。37歳という大ベテランともいうべき存在になっていた加藤ですが、引き続きレギュラーとして起用されるかと思われましたが、この年の加藤の出場機会は開幕戦のわずか1試合のみ。それには監督の松木安太郎との確執がありました。

この年、松木が提唱したのはそれまでの読売クラブ、ヴェルディが貫いたブラジル的な個人技を生かすサッカーでしたが、松木が提唱したのはチーム全体の組織プレーを重視するオランダ型のサッカー。そのため、加藤のポジションにはオランダから来た新外国人のイェーネ・ハンセンが重用され、加藤の出番がほとんどない状態に。このベテランを無視するかのような松木の起用は選手からも反発を生み、一時は加藤の親友であるラモス瑠偉でさえも移籍を希望したほど。ここまでゴタゴタが続いたクラブにはいられないとばかりに加藤はシーズン途中に清水エスパルスへ移籍します。

加藤は清水でもレギュラーに定着し、清水自身も優勝争いに加わりましたが、皮肉なことに年間王者に輝いたのはオランダスタイルを捨て、従来のブラジルスタイルに戻したヴェルディでした。

翌94年、加藤は引き続き清水に籍を置いていましたが、早稲田大学の助手をしつつ、清水に来てプレーするというのは時間的に難しくなっていました。クラブ側も若い選手たちをセンターバックに使うようになったことで加藤は居場所がなくなり、一方でヴェルディもブラジルスタイルに戻したことで、加藤の存在が必要に。そのため加藤はシーズン途中に出戻る形でヴェルディに復帰。7試合に出場して現役を退きました。

様々なチームで監督に就任

現役引退後も加藤久の忙しさは相変わらず。大学での指導と協会の仕事に携わり、日本代表の監督を務めた加茂周への評価も行いました。しかし、96年に加茂の進退問題の際に後任に推していたネルシーニョへの意向ができず、ネルシーニョに避難されたことをキッカケに強化委員会の権威は失墜。加藤もこの責任を取って辞任してしまいました。

それから1年後の97年、加藤はヴェルディ川崎の監督に就任。元Jリーガーがクラブチームの監督になった最初の人物になりました。長年勤務していた早稲田大学も退職してサッカー一本の生活となりましたが、選手の世代交代期に入ったヴェルディを任されたこともあり、成績は今一つ。開幕から2か月後の6月時点でヴェルディの成績は4勝8敗で12位と低迷。しかも前園真聖らスター選手を呼び寄せてこの結果ということもあり、加藤はこの責任を取って辞任します。

その後加藤は00年に湘南ベルマーレ、02年は沖縄かりゆしFC、05年から2年間はヴィクサーレおきなわ、07年には京都サンガFCの監督を歴任。指導者として豊富なキャリアを誇るようになりました。

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