遠藤愛について

名前 遠藤愛
生年月日 1971年2月6日
日本
出身 広島県福山市
プロフィール 小学2年からテニスを始め、暁の星女子高2年のとき、ウィンブルドン・ジュニア準優勝、3年でインターハイ準優勝。筑波大学に進み、2年のときインカレ優勝。平成3年8月プロ転向。同年ユニバーシアード(英国シェフィールド)シングルスで金メダルを獲得。4年全日本室内選手権優勝、同年バルセロナ五輪代表。5年全日本選手権初優勝。6年タスマニア国際オープン(オーストラリア)でツアー初優勝。同年全米オープン初出場でリンゼイ・ダベンポート(米国)を破り、ベスト16に進出。同年広島アジア大会ダブルスで銅メダル。8年WTAランキング49位。9年全日本選手権優勝。10年12月引退。11年4月東京家政学院筑波女子大学短期大学部情報処理科助手に就任

父の指導によって頭角を現す

遠藤愛が生まれ育ったのは広島県福山市。テニスを始めたのは父の影響で、7歳のころにはすでにラケットを握っていました。父の指導によって遠藤の才能は開花していき、暁の星女子高校進学の際もテニス部に入って活躍していました。高校2年生の年に遠藤はウィンブルドン・ジュニアで準優勝を飾り、3年生になるとインターハイでも優勝するなど、輝かしい実績を残していきました。

遠藤は高校卒業後に筑波大学に進学。テニス部のプレーヤーとして活躍しますが、高校時代から多数の実績を誇る遠藤は早くプロになりたいという思いがありました。そこでバルセロナオリンピックを1年後に控えた91年、遠藤は20歳にしてプロへと転向。世界の大会にも数多く出場することになりました。

プロ転向後まもなく、遠藤が出場したのはイギリスで行われた第16回夏季ユニバーシアード大会。この大会では日本人は活躍を収められずにいましたが、遠藤はシングルスとダブルスの2部門に出場。遠藤の実力は並みのものではなく、次々と海外のトッププレーヤーたちを撃破。気が付けばシングルスで遠藤は優勝。日本人としては史上初めてとなる金メダルを獲得しました。

さらに返す刀で平木理化とのコンビでもダブルス優勝といきなりの大成功を収めました。

タスマニア・オープンで日本人史上初の金メダルを

プロ入り1年目にしてビッグタイトルを次々に獲得していった遠藤愛。オリンピックイヤーとなった92年もこの好成績は続き、全仏オープンとウィンブルドンの2大会に出場したのを皮切りに、バルセロナオリンピックにも代表選手として出場。93年には国内大会である日本選手権でも初優勝を飾りました。この頃は遠藤のほかに伊達公子らの女子テニスプレーヤーが台頭してきた時期でもあったので、遠藤らは女子テニス界の躍進の支えになる名選手となりました。

遠藤が選手としてのピークを迎えたのは94年。この年は1月の全豪オープンの前哨戦であるタスマニア・オープンでWTAツアーのシングルス初優勝。この時の決勝戦では地元オーストラリアのレイチェル・マッキランと対戦。自身よりも格上の選手でしたが、まさかの2-1で勝利しています。さらにこの年は全米オープンにも出場して自己最高記録となる4回戦への進出を果たします。

ちなみにこの大会、遠藤とともに出場していた伊達もベスト8入りを果たすなどの活躍を収めました。日本人のテニスプレーヤーが揃って全米オープンで好成績を残したというのは異例のことで、日本のテニス界がさらに盛り上がるキッカケになりました。

クレーコートの全仏オープンでは勝ち切れず

遠藤愛と伊達公子のライバル関係はこの全米オープン以降もさらにヒートアップ。二人の直接対決は大盛り上がりの対戦カードとなりました。この年も遠藤は伊達とニチレイ・レディースの2回戦で対戦し、勝利を挙げましたが、通算成績は3勝2敗とほぼ互角。誰もが認めるライバル関係になったことで日本女子テニス界の発展に加え、スポーツファンの目を女子テニスに向けさせるキッカケにもなりました。また、この年の遠藤は地元広島で行われたアジア大会のダブルス戦で銅メダルを獲得して故郷に錦を飾りました。

テニスの権威ある大会である4大大会にすべて出場していた遠藤ですが、唯一苦手としていたのは全仏オープン。唯一のクレーコートで行われることで知られる大会ですが、遠藤はこのクレーコートの試合が苦手だったようで、92年に3回戦進出を決めた以外では全仏オープンではすべて1回戦負けという散々な成績を残しています。ちなみに92年は3回戦目で敗退となりましたが、この時遠藤に勝利したのは修正のライバルともいうべき伊達でした。

全仏オープンに対するアレルギーは翌95年も続き、さしたる活躍を見せることなくこの年は終えてしまいました。また、この年はさほど活躍を残すことができなかったせいか、翌年のアトランタオリンピックはまさかの落選という憂き目にも遭いました。

伊達の引退で、失速するように

無念のアトランタオリンピック不出場となった遠藤愛。その悔しさを晴らすために奮起しますが、この頃から遠藤のテニスに陰りが見えてきました。

最大の原因となったのはライバルである伊達公子の引退。お互いがお互いを磨き合うという最高の関係だった2人ですが、伊達の現役引退でライバルに当たる選手いなくなったことで遠藤のモチベーションは低下。さしたる活躍を見せられなくなりました。

中でも象徴的だったのは97年の全豪オープン。この時遠藤はまさかの2回戦負けと言う完敗を喫します。そしてほかの日本人選手たちも2回戦まで進めれば精いっぱいと言うほどに弱体化。明確なライバルを見失ったことで失速してきた遠藤でしたが、年齢的な衰えもこの頃から言及されるように。

これ以上テニスを続けるのは困難と考えた遠藤は、翌98年に現役引退を決意。4月に行われたジャパン・オープン・テニスが最後の大会に。ここで2回戦で負けた遠藤は静かにラケットを置きました。くしくもこの日は松岡修造の引退式も用意されていたことで、二つの地域で引退試合が行われるという異例の試合を組まれました。

その後、遠藤は大学に戻り、大学講師として教鞭をとるなど、数々の教育活動に尽力。自身の経験を生かす職業についています。

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