合同葬儀翌日からスタートした再建への道

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2016年11月28日。南米の大陸選手権コパ・スダアメリカーナ決勝の地、コロンビア・メデジンに向かうサッカークラブ、シャペコエンセを乗せた飛行機が、同国のアンティオキア県の山中に墜落。選手、チームスタッフ、会長を含むクラブ関係者、報道陣、乗務員の合計71人が亡くなるという悲劇が起こった。

これほど大きな衝撃から、人生の再出発とチーム再建のために戦い続けるシャペコエンセにとって、無我夢中の1年が過ぎ、先日、クラブとホームタウンであるシャペコ市は、静かな追悼セレモニーを行なった。

遺族や市民が、ホームスタジアムに集まり、ろうそくを手に教会へと行進。墜落の瞬間だった深夜1時15分に、鐘の音が鳴り響く。演出も派手さはない。あるのは、祈りと涙だった。

1年前、そのスタジアムで行われたのは、冷たい雨の中の合同葬儀。ピッチに並んだ50人もの遺体を、それぞれの故郷に送り出した副会長は、今も犠牲者の話をすると、涙で言葉に詰まる。

一方で、クラブを続けていかなくてはならない。再建の道のりは、その合同葬儀の翌日からスタートしたのだった。

選手19人を亡くしたシャペコエンセの選手は、墜落から奇跡の生還を果たし、治療とリハビリに取り組んでいた2人の他に、遠征不参加で墜落機に乗っていなかった3人のみとなった。そのため、下部組織から11人がトップチームに昇格、さらに24人が新加入した。

当初、ロナウジーニョら数々のビッグネームが、メディアを通してチームへの参加希望を表明した。だが、実際に話しに来るわけではないスターに、クラブが頼ることはなかった。

全国のクラブからの、選手を無償で貸し出すという申し出も断った。提供される選手が、ここでプレーしたいという意志を持っているとは限らない。また、シャペコエンセ側が必要とする選手であるとも限らないからだ。

もともと1973年に創立し、市と地元企業に支えられた小さなクラブが、身の丈に合った健全な経営により、短期間で飛躍的な成長を遂げたのだ。給料遅配が度々問題になるブラジルにおいて、ビッグクラブのように給料は高くないが、全員が決まった給料日にきっちり受け取れるシャペコエンセは、以前から選手の信頼も厚い。その哲学を維持し、クラブが必要とし、またシャペコエンセのために戦いたいと望む監督と選手達が、一丸となってチームを再建するという道を選んだのだ。

キャプテンのドゥグラス・グロイにとっては、これが3度目のシャペコエンセ加入となった。

「最初にオファーが来た時は、多くの友達を亡くした自分が、引き受けられるか迷った」と本音を語る。

一方で2度目の所属となった、元東京ヴェルディの右SBのアポジは「多くの友達を亡くしたからこそ、再建を手伝いたいと思った。悲しみは乗り越えられるものではなく、適応していくもの。あの痛みや喪失感と、共存していくことを学んできた。シャペコの人達のために出来る最良の癒やしは、僕らがピッチでより良いプレーをすることだよ」と、移籍当時の思いを振り返る。

新しくなったチームに対する葛藤

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1月に集合した新チームは、シーズン最初の大会、サンタカタリーナ州選手権で奇跡の初タイトルを獲得した。周囲は、選手達の集中力と高いモチベーション、自分達は勝たなければならないんだという、強い意志の持続は、圧倒されるほどだ、と評価した。

しかし、やはり急造チームのこと。数カ月を経て、対戦相手にも研究されると、当初のような破竹の勢いを失い、苦しい時期を過ごすようになった。監督の電撃解任という、クラブの伝統にはないことも強行し、迷走した。

そのチームを支えるサポーターもまた、葛藤していた。人口21万人の小さな街は、クラブと強く結ばれている。ホームゲームのスタンドには、他のスタジアムではあり得ないほど、赤ちゃんや子供達が多い。シャペコの人達にとって、幼い頃から親と一緒にスタジアムに通い、成長すれば友達や恋人と、結婚すれば、今度は自分が家族を連れて試合に来るのが、人生の形の1つと言っても良いほどだ。

小さなクラブが南米大陸の大会で決勝進出するまで、人々は共に生き、共に夢を見て、チームと一緒に成長してきたと、みんなが熱く語る。

さらに、市民と話すと、誰もが「亡くなったGKコーチが、僕らのバーベキューに参加してくれた」「子供が同年代の選手が多いから、幼稚園や学校のイベントでいつも一緒だった」「街やレストランで居合わせると、どの選手とも談笑できた」と、ピッチの外でも大切な思い出を持っている。

だからこそ「今こそ応援するべきなのに、新しい選手達が、まったく新しいチームを再建していくのを見るのがつらい」と語る人もいる。「亡くなった僕らのストライカーなら、あのシュートは外さないのにとか、あり得ない比較をしてしまう」という人もいた。

シャペコエンセのためにプレーしている今の選手達に感謝する一方で、愛し切れないというジレンマ。その市民の思いやプレッシャー、世界中からの注目を受け止めながら、戦ってきた選手達。

アビスパ福岡でもプレーしたモイゼス・ヒベイロは、昨年からシャペコエンセに所属している。負傷欠場のため、墜落機に乗っていなかった彼は「亡くなった人達に対する喪失感は、乗り越えようがない。だけど、サポーターは僕らを信じてくれるはずだ。シャペコの人達に支えられて、僕らはこれからも戦っていく」と歯を食いしばった。

クラブはロッカールームに貼っていた犠牲者達の写真や、追悼のためにサポーターがスタジアムに残していったメッセージカードなどを、すべて撤去した。忘れるためにではない。ただ、今を戦う選手達のプレッシャーを少しでも軽減し、前に進むために。

そうやってチームは厳しい時期を乗り越え、一時は危ぶまれた全国選手権1部残留を決めた。クラブも街も、歓喜に包まれた。

悲劇から1年、終わらない戦い

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墜落から生還した6人のうち、ブラジル人は4人。四肢麻痺の危機を乗り越えた左SBアラン・フシェウは、8月に試合復帰。CBネットも再手術やリハビリを経て、先日からついにボールを使った練習に戻った。右脚を切断したGKフォウマンは、クラブの親善大使を務めると共に、スポーツやクラブ運営の勉強を始めている。さらにスポーツ選手に戻ることも視野に入れている。肺が潰れたことで生命の危機にあったラジオアナウンサーのハファエウ・ヘンゼウも、仕事に復帰し、シャペコエンセの全試合の実況を務めている。

彼らの戦う姿は、どんなことがあろうとも、生きていれば、また立ち上がれる、また笑顔になれるという希望を、人々に与えている。

あるサポーターが話してくれた。

「亡くなった人達を忘れることはないけど、今はまた、サッカーが好きだ、サッカーが見たい、と思えるようになった。シャペコエンセは僕の誇り。新しく始まったチームを応援していくことが、空の上にいる彼らへの、僕のオマージュだ」

しかし、それぞれの立場で過ごした1年後の今、美しい話ばかりではない。スムーズに進まない補償問題により、経済的に厳しい遺族達も多い。彼らは“克服”という言葉を使わない。生きていくため、悲しみに適応し、痛みと共存する。それでも、亡くなった夫の分も仕事をし、子供達を育てていく女性は「彼が今でも私を支えてくれる」と語る。

悲劇から1年。そして、2年目もまた、シャペコエンセの戦いは続く。

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藤原清美

スポーツジャーナリスト。2001年からリオデジャネイロに移住し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材。特に、ブラジルサッカーの代表チームや選手の取材を活動のベースとし、世界各国を飛び回る。選手達の信頼を得た密着スタイルがモットーで、日本とブラジル両国のメディアで発表。ワールドカップ5大会取材。ブラジルのスポーツジャーナリストに贈られる「ボーラ・ジ・オウロ賞」国際部門受賞。