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ソレントにて

木管の甘い音色がフィルインすると、演者は視線を右端に移し、静かに氷上の空気を全身に感じはじめる。フリルの白いシャツと漆黒のパンツ、銀糸の雷紋をあしらったサッシュが、このプログラムの主人公エンリコ・カルーソを思わせる。イタリアはナポリ、ソレント湾を望むホテルのテラスからは、遠く漁火が煌めく。世界的なオペラ歌手は、ここで最期のときを過ごした。

“grida forte il vento(風が吹きすさぶ)”
デニス・テンはさしずめ海から吹く強い風だ。テラスで抱きあう男女を絡み取るように吹き抜けていく。その男は紛れもなくカルーソであり、女は彼の若い妻だ。男は涙に咽びながら愛の歌をうたう。なぜ泣いているのか? それは、真実の愛と儚い人生の狭間にいるからに違いない。

「おまえを愛している
 とてもとても愛しているんだ。知っているね?
 鎖のように強い絆は
 この身を流れる血をも沸き立たせる」

情熱的な愛の叫びに、デニス・テンの情感あふれる四肢が応える。続くダイナミックなふたつのスピンは、愛の大きさと抗えない運命を体現する。

『CARUSO』はイタリアの人気シンガーソングライター、ルーチョ・ダッラの作品だ。19世紀末から20世紀にかけて活躍したオペラ史上最も有名なテノール歌手、エンリコ・カルーソの晩年の恋をモチーフにしている。実際にカルーソが亡くなる間際まで滞在したグランドホテル・エクセルシオール・ヴィットーリアでアイデアを練っている。故人はこのホテルの眺望をことのほか愛していた。

ダッラは演奏旅行の途中、乗っていた船の故障でたまたまソレントに寄港した。そして通された先がこのホテルだったのだ。何かに導かれるような滞在だったという。この曲には、ダッラ本人の他にルチアーノ・パヴァロッティをはじめとする様々なカバーバージョンが存在する。デニス・テンが使用しているのはマルタ出身のテナー、ジョセフ・カレヤによるものだ。

プログラムに『CARUSO』を提案したのは振付師のローリー・ニコルであった。イタリア音楽好きなテンに勧めたのである。ふたりはカルーソについての書物や記事、実際に録音された本人の音源、アメリカに渡った経緯や当時の社会情勢、曲を書いたルーチョ・ダッラについても事細かに調べ、演技に反映させたという。

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天才オペラ歌手の人生

エンリコ・カルーソはナポリの貧民街に生まれた。貧しいながらも家族や周囲の人たちの愛に包まれ成長したという。音楽との接点は、母親のすすめで入った教会の合唱隊だ。そこで歌うことの喜びを知った。最愛の母を病気で亡くした後も歌のレッスンだけは続けた。それが母の望んだことだったからだ。

青年になったカルーソは、生活のためにレストランやバーで流行りの歌を客に披露していた。そこにたまたま居合わせたクラシックの専門家に見出されたことが、オペラの世界へ進むきっかけとなった。すべてが神の思し召しだ。

デニス・テンもまた、はやくから音楽教育を受けている。母親がバイオリニストということもあって、音楽学校でピアノと声楽を専門的に学んでいる。テンのリズム感や表現においての勘所の良さは、音楽教育のなせる業かもしれない。加えてあの佇まいである。イントロダクションから何か高級な絵画を鑑賞するような期待感を持たせる。これはgift(授かりもの)である。

エンリコ・カルーソに話を戻そう。オペラからナポリ民謡までこなす才能溢れる若者は、同時に根っからのナポリっ子で、陽気で喧嘩っ早く、女たらしで、次第にナポリに居づらい状況になった。こうしてミラノへと活動の場を移すと、そこでレコード産業の波に乗り、一気に名声を得ることになる。私生活では舞台で共演した美しいオペラ歌手と恋仲になり、正式な結婚をしないまま2人の子供をもうけている。

アメリカに渡ったのは30歳の時。世界に名を轟かせたのは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場での成功だ。公演は毎度大盛況で、ついには劇場の支援者である実業家の娘と結婚してしまう。このことで内縁の妻と裁判沙汰になったりと、多くのイタリア男の憧れを地で行く破天荒な人生を歩んでいる。

そんな華やかな生活に、秘かに病魔が忍び寄っていた。舞台の最中に吐血し、故郷のナポリへ療養に戻ることとなるのが1920年47歳の時。以降、前述したホテルが最後の住いになる。そして、翌年に働き盛りの48歳でこの世を去る。国葬級の葬儀には要人が多数参列した。

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儚い人生への賛歌

「舞台の上では全ての悲劇は作り物に過ぎない
 すこしの化粧と仕草で別人になれるのだから
 でもいざ真実の眼差しと相対すると
 言葉を失ない心に混乱が起きる
 こうして何もかもが
 些細な記憶に姿を変えるのだ
 あのアメリカでの夜ですら
 男は自らの人生を振り返る
 船尾の白波のように儚く消え去る人生を」

終盤では、オペラはあくまでも“虚構”であり現実ではないこと。それと対比するように、目の前にある“真実”の愛に翻弄されるスターの姿を描写している。氷上の演技も、激しく美しいジャンプとドラマティックに様相を変えるスピンで、オペラそのものや華やかなショービズの世界を表現する。そして、それら輝かしい成功ですら振り返ると儚いものだと、そっと過去に手を伸ばし瞳を閉じるのだ。

48歳のカルーソの人生を21歳のデニス・テンが演じる。いささか無理な話とも思うのだが、これがどうして、なかなかの達観ぶりで違和感がない。もしかすると、皆が思うよりもテンが大人びていて、カルーソが実際よりも20歳ほど気持ちが若いのかもしれない。ふたりの精神年齢は時空を超え、氷上でぴたりと重なった。

「おまえを愛している
 とてもとても愛しているんだ。知っているね?
 鎖のように強い絆は
 この身を流れる血をも沸き立たせる」

もはや消えゆく人生に後悔はなく、信ずるは目の前の愛のみ。渾身のシークエンスは低空で飛ぶ海鳥にも似て、美しく、強く、時おり白波をひいて、その跡はやがて深い青に溶けて消えてゆくのだ。

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<了>

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いとうやまね

インターブランド、他でクリエイティブ・ディレクターとしてCI、VI開発に携わる。後に、コピーライターに転向。著書は『氷上秘話 フィギュアスケート楽曲・プログラムの知られざる世界』『フットボールde国歌大合唱!』(東邦出版)『プロフットボーラーの家族の肖像』(カンゼン)他、がある。サッカー専門TV、実況中継のリサーチャーとしても活動。