2004年に新たに導入されたパ・リーグのプレーオフ

はじまりは、いまから12年前にさかのぼる。2004年のことだ。このシーズンから、パ・リーグで1982年以来22年ぶりにプレーオフ制度が導入された。
 これは、現在のクライマックスシリーズの原型となるもので、まず、レギュラーシーズン2位と3位のチームが2戦先勝の第1ステージを戦い、その勝者とシーズン1位のチームによる3戦先勝の第2ステージによって、日本シリーズ出場はもとより、この年のリーグ優勝までもが決まるという方式だった。前期、後期制だった以前とは異なる新しいプレーオフ。開催前から賛否両論が飛び交ったが、それゆえに、大きな注目を浴びるスタートとなった。

2004年プレーオフ最終戦でまさかの敗退

2004年のパ・リーグを1位で終えたのは、前年、日本一になったダイエー(現ソフトバンク)だった。前年20勝投手の仲間入りを果たした斉藤和巳の勝ち星は、この年、半分の10勝に落ち込んだが、新人のサイド左腕・三瀬幸司が抑え不在の穴を埋め、ローテーションの谷間に先発した倉野信次が、先発登板9試合で7勝0敗と貯金を稼いだ。
 そして、なによりも凄まじかったのが破壊力のある打線だった。不動の四番だった松中信彦は打率.358、44本塁打、120打点でパ・リーグ三冠王を獲得。強打の捕手・城島健司をはじめ、井口資仁(現ロッテ)、ズレータ、バルデスに、この年、ショートに定着した川崎宗則(現カブス)など、脇を固めるメンバーも実力を発揮して、危なげない展開でリーグ1位を決めていた。

 そんな背景があるなかで行われた最初のプレーオフは、渡辺久信監督率いる西武が第1ステージで日本ハムを下して勝ち上がり、第2ステージで待ち受けるダイエーと対戦。初戦はダイエーが勝利したが、その後、西武が連勝して先に王手をかけた。
 だが、あとがない第4戦はダイエーが勝ってタイとし、最終第5戦では、3対3で迎えた9回裏、2死二、三塁で打席に入った四番・松中を迎えた。福岡ドーム(現ヤフオクドーム)のスタンドは、王者が王者たる勝ちっぷりでリーグ優勝を決める“予定調和”の準備が整ったと悟り、地響きのような歓声で野球の神の降臨を出迎えた。
 ところが、西武のリリーフエース・豊田清のフォークボールに泳がされた松中の打球はあえなくセカンドゴロに終わり、試合は延長戦に突入。延長10回表にマウンドに上がった三瀬が、小関竜弥の二塁打を皮切りに、犬伏稔昌の犠牲フライで1点を失い、ダイエーはそのまま逃げ切られて惜敗。プレーオフ初年度から波乱が起きた。

 このシリーズ、松中は完全にブレーキになっていた。シーズン終了後、2位の西武が第1ステージを戦ってから乗り込んできたのに対して、しのぎを削る実戦から遠ざかっていたダイエーは、ただでさえ本来の調子には程遠かった。そのうえ、短期決戦におけるキーマンとして徹底マークもされた松中は、チームの主力として、また、パ・リーグ三冠王としてのプレッシャーに屈したのか、このシリーズ19打数2安打。期待のかかった場面でことごとく不調な結果に終わっている。

だがもし、この9回裏の一打サヨナラの場面で、どんな形にせよ、松中の結果球によってダイエーがサヨナラ勝ちを収めてリーグ優勝を決めていたら、以後の悪夢は起こらなかったかもしれない。当時のプレーオフ制度では、シーズン1位のチームに与えられる1勝のアドバンテージは、2位を5ゲーム以上離さないと取得することができず、ダイエーと西武のゲーム差はアドバンテージ取得にわずかにおよばぬ4.5ゲームだったことも、明暗を分けるポイントのひとつとされたが、それも、ここで打っていれば解消されていたことである。
あとになって振り返ると、この2004年のプレーオフ最終打席は、極めて重要な運命の分岐点となった。

シーズン中の力を短期決戦で発揮できぬ“呪縛”

翌2005年以降も、ホークスのポストシーズンにおける悪夢は続いた。
 オフに親会社がダイエーからソフトバンクへと電撃的に変わり、ユニフォームも黄色のアクセントが入った新たなデザインで挑んだシーズン。四番の松中は、プレーオフのショックを払拭するかのように打ちまくり、46本塁打、121打点。打率こそ4位(.315)で2年連続三冠王にはおよばなかったが、本塁打と打点の二冠を獲得した。
 そして、前年から活躍していたズレータが覚醒して松中と肩を並べる活躍をすれば、現役メジャーリーガーとして新たに獲得したバティスタ、カブレラも存在感を発揮。投手陣では、前年、ノックアウトされた悔しさに我を忘れてベンチを殴りつけ、両手の指を骨折して戦線を離脱した杉内俊哉が復帰。抜群の安定感でローテーションの軸となり、最多勝(18勝)と最優秀防御率(2.11)に輝いた。
 チームは「昨年の借りを返す」を合言葉に一致団結。この年、優勝争いに絡んできた2位のロッテとは、常時セーフティーリードをキープし、プレーオフで1勝のアドバンテージが得られる5ゲーム差を目指した。だが、シーズン最後の直接対決4連戦で3連敗を喫して2ゲーム差まで肉薄され、なんとか1位でゴールしたが、またもやアドバンテージ獲得の念願はかなわなかった。

 そのロッテが第1ステージを勝ち上がって激突したプレーオフ第2ステージ。だが、またもや松中の気合は空回りしてしまい、4試合ノーヒットと大ブレーキになってしまう。それでも、他の選手が奮闘し2勝2敗のタイに持ち込んで迎えた最終第5戦では、7回を終わった時点で2対1とリード。「これで、ようやく勝てる」と思いはじめたのもつかの間、ロッテが里崎智也の二塁打で3対2と勝ち越しに成功し、そのまま、逃げ切ってしまった。
ソフトバンクは、まるで前年の展開を繰り返すかのように、あと一歩、いや、あと半歩のところで、リーグ優勝と日本シリーズの出場をつかむことができなかった。

 さらに、翌年の2006年に至っては、シーズン中、首位に何度も立ちながら、最後の最後で失速して2位で終了。プレーオフ制度が導入されてから初めて追う側となり、第1ステージは西武に勝って第2ステージの決戦に挑んだが、ヒルマン監督が指揮する日本ハムには、アドバンテージとして1勝が与えられていた。この年からシステムが改正され、「第2ステージではシーズンのゲーム差にかかわらず、1位のチームに1勝のアドバンテージ」とされていたためだ。プラス1勝は実に効果的で、初戦で日本ハムが勝利すると、早くも王手がかかる。ソフトバンクの2年連続の悲劇により、不公平性の是正措置として設けられた新ルールが、皮肉にもそのソフトバンクを苦しめることになってしまった。
 後がない第3戦には、この年18勝を挙げて勝利、防御率、奪三振、勝率の投手四冠を総ナメした斉藤和巳が中4日で先発。右肩に故障の不安があり、十分な間隔を空けて投げてきた右腕エースが、最後の望みを託して捨て身の形相で熱投を繰り広げる。
たが、0対0で迎えた9回裏にサヨナラ負け……。25年ぶり、北海道移転後初のリーグ優勝の歓喜に弾けるスタンドのなか、ヒザから崩れた斎藤は立ち上がれず。松中もレフトの守備位置で、しばらくの間、立ちつくしたままだった。

4年後の2010年のCSでもまさかの“天国”から“地獄”

プレーオフの3度の悲劇から4年後の2010年。ソフトバンクにかかった“呪い”は、まだ終わっていなかった。

 2007年、それまでパ・リーグのみで開催されていたプレーオフは、セ・リーグも導入する形で足並みが揃い、クライマックスシリーズとその名も改められた。
 ソフトバンクは、2006年のプレーオフ敗戦以降、チーム力が徐々に低下。2007年と2009年にシーズン3位でシリーズに出場したものの、ともに第1ステージで早々に敗れ去っている。この間、監督は王貞治から秋山幸二へと引き継がれ、チームは世代交代が進み、再び戦力を整えてリーグ優勝を果たしたのが2010年だった。
「もう、あのころのような苦手意識はない」
 選手ひとりひとりが強くそう信じ、それを結果で証明すべく、2位ロッテとのクライマックスシリーズファイナルステージに臨んだ。
 そして、第1戦こそ落としたものの、その後、2連勝。ホームアドバンテージと合わせて3勝1敗と王手をかけた。負け続けたプレーオフのときには、これほど余裕をもった王手はない。九分九厘、悲願の日本シリーズ出場を手中に収めたと思われた。
 ところが、ソフトバンクは信じられないことに、そこから3連敗を喫してしまうのである。ロッテの大逆転勝利である。日本シリーズ出場は、またもやその手からすり抜けていった。それどころか、ロッテのレギュラー捕手・里崎智也がヒーローインタビューで発した「史上最大の下克上」の踏み台になってしまった格好である。勢いに乗ったロッテは日本シリーズでも勝利し、この年はロッテのポストシーズンにおける快進撃が際立つシーズンになったが、その影で、ソフトバンクがプレーオフ制度のスタート以来、一度も勝ち上がれぬことに対して、ファンや専門家の多くは「なぜ、ここまで勝てないのか? シーズン中はあれほど強いのに……」という疑問に対する明確な答えを見つけきることができず。釈然とせぬまま、“呪縛”という言葉で代弁して、現実を受け入れるしかなかった。

野球の神の気まぐれに真正面から挑み続ける

プレーオフ時代の2004年~2006年から、2010年でクライマックスシリーズまで、実に3度にわたり、リーグ優勝(1位)の“天国”から日本シリーズに出場を逃す“地獄”を味わったホークス。ようやく宿願を果たして日本一の座についたのは、2010年の“下克上”による敗戦から1年後の2011年だった。プレーオフ導入前に日本一になった2003年から、実に8年もの年月が流れていた。2004年のプレーオフ最終戦9回裏一打サヨナラでの松中の凡退から生じた“呪縛”から逃れるまでに、7年という長い期間を擁したことになる。

 そして、2014年、2015年と連続して日本一の栄冠を手にするほどになった根幹には、ポストシーズンで負け続けた経験が染み付いている。球団は強力なバックアップで設備や戦力を整え、いまや12球団随一といえる選手層を誇る。
それでも、3連覇を目指す今季は、シーズン後半から日本ハムの猛烈な追い上げにあい、熾烈な首位争いを演じている。野球の神は、どこまで意地が悪いのか。いや、だからこそ、強いとされるチームが必ずしも勝てないからこそ、野球がいつまでも魅力のあるスポーツとして君臨できているのだろう。
 ソフトバンクは、これからも、そんな野球の神の気まぐれに対して、真っ向から挑んでいくにちがいない。

(著者プロフィール)
キビタ キビオ
1971年、東京都生まれ。30歳を越えてから転職し、ライター&編集者として『野球小僧』(現『野球太郎』)の編集部員を長年勤め、選手のプレーをストップウオッチで計測して考察する「炎のストップウオッチャー」を連載。現在はフリーとして、雑誌の取材原稿から書籍構成、『球辞苑』(NHK-BS)ほかメディア出演など幅広く活動している。


キビタ キビオ