クラブW杯で初めて導入されたVARsシステム
2016年12月に開催されたFIFAクラブワールドカップは、レアル・マドリーと鹿島アントラーズが決勝で激闘を繰り広げ、延長戦の末にR・マドリーが鹿島を振り切って“クラブ世界一”に輝いた。先制されながらもMF柴崎岳の2ゴールで一時は勝ち越し、「目つきが変わった。あの瞬間は本気だったと思います」とDF昌子源が振り返ったように、スター軍団に真剣勝負を演じさせた鹿島の健闘は称えられてしかるべきだが、この大会では新たに導入されたあるシステムが大きな注目を集めた。VARs(ビデオ・アシスタント・レフェリー)システムである。
VARsとは、数名の審判員が複数のモニターを使って試合の流れを常時チェックし、明確な誤審があった場合のみ、無線を通じて主審にその旨を伝えるシステムだ。
このビデオ判定の試験は2017年からベルギー、フランス、ドイツ、オランダ、アメリカなどでも行われることになっており、コスト増に見合う公正なジャッジが立証されるケースが多ければ、近い将来に正式導入される運びとなるようだ。8日開幕CWCより試験的に導入されるビデオ判定にFIFA幹部ファン・バステンも期待 - Goal.com
16年9月にはオランダのエールディビジの試合でVARsが使用されており、今大会はFIFA管轄下の大会として初めて導入されたことになる。彼らが見据えているのは、もちろん18年ロシアW杯での本格導入だ。
今大会で最初にVARsが判定に介入したのは、準決勝のアトレティコ・ナシオナル対鹿島戦だった。28分の鹿島のFKの場面で、DF西大伍がペナルティーエリア内で相手選手に倒される反則があったとしてVARs担当の審判から主審に無線連絡が入る。そして主審がピッチ脇のモニターでリプレイを確認し、鹿島にPKが与えられた。また、同じ準決勝のクラブ・アメリカ対R・マドリー戦の後半終了間際、FWクリスティアーノ・ロナウドがゴールを決めた場面でも、オフサイドがあったのではないかということで試合が一時中断し、後に得点が認められた。両試合を取材していた筆者は、C・ロナウドのケースが発生した際にある違和感を覚えた。
試合運営の問題以上に、システムの“公正さ”が問われる
西のケースでは主審がリプレイを確認した際、スタジアムのオーロラビジョンに同じ映像が流された。観客も西が倒されたことを映像で確認し、その瞬間に鹿島サポーターを中心に大きな歓声が沸き起こった。実際のプレーからPKの判定が下るまでかなりのタイムラグはあったが、VARsの判定では主審がピッチ脇で映像を確認する際、同じ画が場内に流され、判定を共有できるものだと誰もが認識したはずだ。
ところがC・ロナウドのケースでは、場内に映像が流されなかった。この時、筆者は「あれ、今回は会場にリプレイが流れないのか」ではなく、「もしかしたら本当はオフサイドだったんだけど、それを隠すためにわざと流さないんじゃないか」と想像してしまった。C・ロナウドのゴールは多くのファンが待ち望んでいるものだ。それを数分間の中断の後に取り消すのは、かなりの勇気が求められる。テレビ中継ではオンサイドだったことが確認できる映像が流れたようだが、現場では流れずじまいだったため、釈然としないまま試合終了を迎えたのである。
VARsは審判団の見逃しや見落とし、間違いを是正する画期的なシステムだが、同時に試合に関わる人間の数が増えること、つまり、不正が入り込む余地が増えることも意味している。
西のケースではPKの判定が下るまで数分間にわたって試合が中断し、C・ロナウドの得点シーンでは、VARs担当者のリプレイ確認中に主審に無線が繋がるという人為的ミスが生じたことをFIFA側が明らかにしている。今後の導入に向けてこれらの課題を改善させていかなければならないのはもちろんだが、その前段階として、システム自体が正しく使われる保証がなければならない。何者かがVARs担当者を買収したり脅迫したりすること、あるいは彼ら自身が故意に判定を操作することもできるだろうし、彼らと審判団を繋ぐ無線が、他の人間と繋がっていないとも限らない。
現に決勝の後半終了間際、DFセルヒオ・ラモスがFW金崎夢生を倒したシーンでは、主審が胸のカードに手を伸ばしながらも思いとどまり、S・ラモスは2度目の警告による退場を免れている。主審は後に「副審から無線で『カードなし』と言われたのを『カードあり』と聞き間違えた」と弁明しているが、これを聞いて納得した人間がどれだけいるだろうか。
今大会でVARsが一定の成果を挙げたことは間違いないが、準決勝終了後の記者会見でR・マドリーのMFルカ・モドリッチが「混乱を巻き起こすし、自分は好きではない」と語り、FWルーカス・バスケスも「僕もルカと同意見だ」と同調するなど、システムに対する否定的な意見も多い。新しい技術や設備が導入されるのは、時代の流れを考えると仕方のないことなのかもしれない。それらが正しく使用されることを、ただただ願うばかりである。