熱意が裏目に出たリハビリ、そして再手術……
高校野球を終えた荒木大輔は、ドラフト会議で2球団から1位指名を受ける。抽選の結果、ヤクルトが交渉権を獲得し入団の運びとなった。人気はプロ入り後も衰えることはなく、荒木は1年目から一軍で登板機会を与えられた。3年目には先発ローテーションに定着。5年目には先発投手として2桁勝利もマークし、ヤクルトの主力投手となった。甲子園のスターたちの、少なくない人数が結果を残せずプロの世界を去っていったことを考えれば、順調なステップと言えるだろう。
しかし、好事魔多し――。1988年、荒木はプロ6年目のシーズン中にヒジを痛め、夏場にアメリカへ渡り手術を受けることになる。
「高校時代の酷使も理由ではないかとも言われましたが、自分としては関係ないと思っています。ただ、もともと体が強くない方だという自覚はあったので、『オレ、体が弱いのかな』とは感じていたましたね」
ただ、執刀したのは名医で知られるフランク・ジョーブ博士。手術は無事成功し、回復も順調。秋には再渡米して手術箇所にたまった脂肪を取り除く処置を行い、いよいよ本格的なリハビリに入ることとなった。だが、ここで荒木は思わぬ事態に陥る。経過が順調なあまり、早い復帰を目指して課せられたリハビリのメニュー以上のトレーニングを行ってしまったのだ。その熱意は結果的に回復を遅らせてしまい、翌年、荒木は再手術を通告された。
「リハビリをナメたらダメだと学びました。やらない勇気、休む勇気も必要だと。当時は球界にリハビリ専任のトレーナーやコーチもいない時代。手術やリハビリについて周囲もいまほど理解が深くありませんでした。リハビリやトレーニングにストップをかけてくれる人がいなかったんです。その結果、再手術後には担当のトレーナーがついてくれることになりました。ヤクルトにリハビリ担当ができたのは僕の貢献でもあるんですよ(笑)」
いまとなっては笑顔で話せるが、当時はショックも大きかっただろう。焦りが禁物と身をもって理解した荒木は、なにを言われてもゆっくりやろうと心に決めた。
「やめる順番がちがうだろう」という反骨心
ただ、それは荒木大輔という選手の名が、長期間、世間から遠のくことを意味した。時間はかかるが、着実に進む回復と反比例するように、かつて周囲に大勢いた記者やファンは少なくなっていく。
埼玉・戸田の河川敷にある二軍練習場。ほとんど人目がないグラウンドでひたすらリハビリに明け暮れる日々。それは、かつて日本中の注目を集めた甲子園の日々と対照的な風景であった。その後、荒木は椎間板ヘルニアも発症し、結局、一軍のマウンドに復帰したのは1992年秋。実に、約4年にもおよぶリハビリ生活だった。荒木は2試合に先発して2勝。この年、14年ぶりにセ・リーグを制覇したヤクルトの躍進に花を添えた。
それにしても、約4年もの長い間、荒木を支えたのは、どのようなモチベーションだったのだろうか。
「リハビリ中は二軍にいるわけですが、二軍はヘタな選手もプロのユニフォームを着ていたりするわけです。そんな選手がいるのにオレがプロのユニフォームを脱げるわけがない、なんでアイツらがやれているのにオレがやめなければいけないの、やめる順番がちがうだろう、と思っていました。ケガが治れば、投げられさえすればやれる、と……」
もちろん復帰に手を貸してくれた人々への恩返しという気持ちもあった。野球への執着もあった。だが最も強く荒木を支えていたのは、そんな強い自負、反骨心といってもいいだろう。甲子園のアイドルという甘いマスクの内に秘めた、勝負の世界に生きる男の顔。甲子園で荒木が活躍できた底には、この強い気持ちが合ったからにちがいない。だから、このインタビューでも、スターとして脚光を浴びた甲子園の栄光を「あのころはよかった」などと振り返ることもなかった。
甲子園を懐かしむ選手はプロでは無理
「あのころは甲子園のことを懐かしいなんて思ったことはありません。そういうことを思う人は、プロでは無理。無理をして、「そんな気持ちをいま出したらダメだ」と抑え込む人もダメ。自然でいられるようじゃないと。これは引退してコーチになってからより強く感じるようになりました。活躍できない選手は話の節々にそんな気持ちが出てくる。その時点で弱い。僕は高校時代のことなんて、考えることもなかった」
しかし、本人はそういう気持ちでいても、メディアやファンは残酷だ。「あのころの輝きはどこへ」「もう終わったんじゃないか」。甲子園での活躍がまぶしかった故に過去を引き合いにする。
「言い方は悪いかもしれませんが、そんなもんですよ。騒ぐときは騒ぐけど、離れるときは離れる。それも高校時代にある程度、経験していたので、気にならなかった。もちろん、なかにはリハビリ中も連絡くれる人はいましたけどね。まあ、勝負の相手は別なので、淡々とコツコツやるだけ。ファンの方に喜んでもらいたい気持ちはありますが、それとは別の話として、周囲の声を意識した時点でダメです」
再びの、バッサリと言い切るさっぱりさ。現役時代、荒木を「度胸がいい、肝が据わっている」と評する人もいたが、こういった点にも表れており、また彼を「消えた甲子園のアイドル」にせず、復活まで導いた要因のようにも見える。
では、苦闘する元・甲子園のアイドル、スターたちを荒木はどう見ているのか。
「……難しいな。でも、とにかく逃げたらダメ。苦しくなると逃げ道を探してしまうけど、プロ野球は勝負の世界。苦しさと向き合わなければならない。恥をかいても向き合って戦うしかない。僕、腰をやったときに『邪魔だからユニフォームを着るな』と言われたこともあるんです。悔しさしかなかった……。でもやるしかない、やらないと見返す場にも立てないから」

勝つのは1校だけ! まずは野球を楽しんでほしい
近年、荒木大輔はテレビ番組などで、高校野球の取材を精力的に行うようになった。言葉通り、現役時代は関心が薄れていた高校野球だったが、いまは引きつけられるのだという。
「最初は仕事のひとつ、くらいの気持ちで観ていたんだけど、自分も年をとって昔の記憶が呼び起こされたのかな? また興味が沸いてきました。やっぱり高校野球、好きなんですね。一球一球に向かう姿、ドラマ性……昔と変わっていないのが嬉しい」
選手たちは、もう自分の子どものような世代。それもあって「素直に観られるのかもしれない」と言う。
「昨年、イベントで(*第1回全国中等学校優勝野球大会 再現プロジェクト2015)で始球式をしたんです。甲子園で、早実のユニフォームを着て。オファーがあったときは軽い気持ちで引き受けたんですが、高校以来、久しぶりにユニフォームを着たら緊張しちゃって、ボールをしっかり持てない(笑)。それくらいの高揚感がありました」
やはり、「高校野球は特別なんだ」と痛感した。
「どんなに頑張っても、甲子園で勝ち残るはたった1校。だから、高校球児には、まず野球を楽しんでもらいたい。いろいろな仲間ができるし、楽しければ学校にも行きたくなる。清宮君(早実・清宮幸太郎)も取材で、『期待に応えられなかった』なんて話すこともあるけど、それは言い方を変えれば、単なる部活動でたまたま打てなかっただけ。そんな気持ちが強すぎると、楽しくなくなっちゃうよね。プロは勝たなくてはいけないけど、高校野球はそこまで思う必要はないんですよ」
甲子園で注目されることの良さも悪さも知る偉大なる先輩からのメッセージ。それはなにも甲子園のスターだけではなく、すべての高校球児に話しているような温かさがあった。
(著者プロフィール)
田澤健一郎
1975年、山形県生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経て編集・ライターに。主な共著に『永遠の一球』『夢の続き』など。『野球太郎』等、スポーツ、野球関係の雑誌、ムックを多く手がける元・高校球児。
甲子園のアイドル、荒木大輔が振り返る「高校野球」(前編)
かつて甲子園のアイドルとして日本中を沸かせた“大ちゃんフィーバー”の主・荒木大輔(元早稲田実業)。あれから30年以上が経ち、荒木はいま、精力的に高校野球の取材を行っている。アイドルとして輝いた自らの高校野球。対照的に故障に苦しんだプロ野球選手時代。前編では高校野球時代について振り返る。 取材・文/田澤健一郎 写真/塚原孝顕
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