【『踊る大捜査線』と『タイタニック』が大ヒット!平成の怪物がいた時代】
20年前、1998年10月31日の出来事だ。
有楽町の日劇東宝ではなんと3200人の大行列ができていた。まだ消防法が緩く、映画館が全席指定制になる前の時代、この日から公開開始の『踊る大捜査線 THE MOVIE』を観るために日劇史上No.1の観客が建物の周囲に並んだのである。劇場側も途中から小雨がパラついたので9階のロビーを解放したという。その“娯楽の殿堂”日劇が2018年2月4日に閉館した。
同じく、20年前の1998年11月20日、西武ライオンズからドラフト1位指名を受けたのが当時横浜高校の松坂大輔だ。その“平成の怪物”は2018年2月に中日ドラゴンズのユニフォーム姿でメディアを賑わせている。ちなみに現在37歳の松坂が甲子園を席巻した1998年と言えば、前年12月20日公開の『北京原人』じゃなく『タイタニック』が計50週の大ロングランで日本での最終配収は160億円にも上った。50週……ってほぼ1年間に渡り同じ映画を上映し続けたことになる。ただのノスタルジーに浸るおっさんみたいな台詞になるが、スマホはもちろん存在せず、ネットの普及率も15%弱(現代は80%超え)と今より情報伝達スピードが遅くのんびりした時代だったのは確かだ。世紀末、1つの大ヒット商品を世の中みんなで共有するみたいな昭和ぽい空気感がまだギリギリ残っていた気がする。いやもしかしたら、日本国民でワリカンした最後の野球選手が「松坂大輔」なのかもしれない。
【西武時代の背番号18の衝撃】
さて、そんな西武時代の松坂はどれくらい凄かったのか? ここで平成を代表する4名の投手の高卒ドラフト1位でプロ入り後、ポスティング制度でメジャー移籍するまでのNPB時代の成績を振り返ってみよう(松坂は西武時代のみ)。
選手 | 球団 | 所属 | 試合 | 勝敗 | 防御率 | 奪三振 | 与四球 | 登板回 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
松坂大輔 | 西武 | 99~06年 | 204 | 108勝60敗 | 2.95 | 1355 | 504 | 1402.2 |
ダルビッシュ有 | 日本ハム | 05~11年 | 167 | 93勝38敗 | 1.99 | 1250 | 333 | 1268.1 |
田中将大 | 楽天 | 07~13 | 175 | 99勝35敗 | 2.30 | 1238 | 275 | 1315 |
大谷翔平 | 日本ハム | 13~17年 | 85 | 42勝15敗 | 2.52 | 624 | 200 | 543 |
それぞれ松坂8年、ダルビッシュと田中は7年、大谷は5年の日本球界生活。二刀流の大谷はまた別のモデルケースかもしれないが、徐々に完成系に近付いてアメリカへと旅立ったダルビッシュや田中とは対照的に松坂は1年目から3年連続最多勝に輝いている。プロ3年目までの勝敗は松坂45勝27敗、ダルビッシュ32勝15敗、田中35勝20敗、大谷29勝9敗。しかも松坂は沢村賞を受賞した3年目には240.1回も投げた。昨季の12球団トップがマイコラス(読売ジャイアンツ)の188回だったことを考えると20歳から21歳になるシーズンに無謀とも思える投げっぷりである。
1年目から西武ライオンズの大黒柱を託されたプロ生活。99年、あの日本ハム戦の155キロの直球でスタートしたルーキーイヤーの終盤、福岡ダイエーホークスと優勝争いを繰り広げていた9月の起用法は今でも語り草だ。9月2日の日本ハム戦(西武ドーム)で毎回の15奪三振、9回1失点の完投勝利で13勝目。5日近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)では8対8で迎えた9回から中2日のリリーフ登板、3イニング計41球を投げ無失点に抑えリーグトップの14勝目を上げた。さらに天王山の8日ダイエー戦(福岡ドーム)にも中2日で先発、松坂は2回に秋山幸二の顔面に死球を与えながら、7回途中まで2失点と粘り10奪三振を奪うも臀部の筋肉の違和感を訴え降板。しかし、21日の近鉄戦(西武ドーム)で先発復帰し15勝目を記録している。結局、チームは優勝を逃したものの、16勝5敗、防御率2.60という成績で高卒ルーキーでは54年の宅和本司(南海ホークス)以来となる最多勝を獲得、史上初のベストナインとゴールデングラブ賞をダブル受賞した。
【あの頃、松坂大輔だけが背負ったもの】
99年にまだこの手の前時代的な投手起用がされていたこと自体が驚きだが、西武時代の松坂は肩と肘をどれだけ消耗しようが、とにかく日本球界を背負って投げまくっていた。国際オリンピック委員会の方針でプロ選手の出場解禁となった2000年のシドニー五輪でも高卒2年目の背番号18が日本のエースとして選出。さらに25歳で迎えた06年第1回WBCでは3勝0敗、防御率1.38という好成績で世界一に貢献、大会MVPにも輝いた。
恐らくピーク時を比較しても投手としての完成度ならダルビッシュ、勝負強さは田中、才能ならば大谷の方が上だろう。だが、松坂には歴史という名のストーリー性がある。プロ野球の実績だけではなく、甲子園、五輪、WBC、いつもそのど真ん中に松坂はいた。いわば野球界を超え、世間が注目する数々のビッグイベントで主役を張り続けた男。
そんな投手は長い球界の歴史において、後にも先にも「松坂大輔」だけである。
(参考資料)
『さよなら日劇ラストショウ』パンフレット(東宝(株)映像事業部)
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