【大阪ドームで目撃した松井稼頭央の三塁打】
小さい頃、埼玉の田舎町でテレビをつけると、よく西武戦がやっていた。
90年代初頭のテレビ埼玉では夕方5時から全日本プロレス中継再放送。そして18時になるとTVSライオンズアワーで西武球場から生中継が始まるわけだ。巨人ファンでも清原和博と秋山幸二のAK砲は別格の地元のヒーロー。漫画『かっとばせ!キヨハラくん』が連載されていたのは当時の小学生にとって人生の教科書コロコロコミックスである。けど中学、高校と成長していくにつれて、徐々に勉強や部活や隣の席の女子に好かれることの方がテレビの中のプロ野球よりも大事になってくる。
それが大学進学で埼玉を離れ大阪でひとり暮らしを始めてから、たまに大阪ドームへ行くようになった。近鉄対西武戦を年に2〜3試合だけ見に行っていたのである。西武ライオンズは遠く離れた地元と自分を繋げる最後の砦…と書くと格好いいけど、単純に死ぬほど暇だったのである。もちろん球界再編前夜、スタンドはガラガラだ。熱狂的に西武を応援しているわけではない。ただ、あのライオンズブルーのユニフォームが妙に懐かしかった。
若手時代の松坂大輔が話題になっていた時期だが、先発投手なのでなかなか生で見る機会には恵まれず、お目当ては松井稼頭央。あれは2002年か03年あたりの試合だったと思うが、1番ショート松井は第1打席でライト線に二塁打を放った…と思ったら、背番号7は跳ねるように走り、恐ろしいスピードで加速すると悠々三塁打にしてしまった。空席だらけのスタンドからはまばらな拍手。つられて俺も拍手。目の前のグラウンドには全員全盛期バリバリの松井稼頭央やアレックス・カブレラ、中村紀洋やタフィ・ローズがいた。20代前半、どこにも行きたくなかったし、何もしたくなかった。今思えば、贅沢な時間だった。
【テレビ番組をきっかけに全国区となったスピードスター】
松井稼頭央の名前が日本中に知れ渡るきっかけはテレビ番組『最強の男は誰だ! 壮絶筋肉バトル!! スポーツマンNo.1決定戦』である。スポーツ界のフィジカルエリートたちが集い、モンスターボックスと呼ばれる巨大跳び箱、10kgの樽を放り投げるザ・ガロンスロー、10m上から落ちてくるボールに落下前に触れるショットガンタッチ等の各種アトラクションで跳んで走ってパワーを競う単純明快な人気番組だ。
97年正月、当時21歳の松井は前年に50盗塁を記録した売り出し中の若手選手のひとり。西武のチームメイト高木大成の代役として番組出演すると、それまで球界ナンバーワンの脚力の持ち主と言われていた飯田哲也(ヤクルト)に50m走で圧勝(記録は6秒07)。同じく瞬発系の種目ショットガンタッチでもぶっちぎりで優勝し、総合No.1に輝いた。この活躍はまさしく事件とも言っていいインパクトで、今ほどパ・リーグの露出がなかった時代にイケメンスピードスター「松井稼頭央」の名は瞬く間に全国区となった。翌98年も50m走ダッシュで村松有人(ダイエー)や緒方孝市(広島)といった当時の球界快速自慢の面々をよせつけずV2を達成。
本業の野球でも96年日米野球で18打数10安打の打率.556、5盗塁と活躍した男は、メジャー関係者からゴジラ松井に対抗して「リトルマツイ」と称賛される。97年シーズンは62盗塁で初タイトルを獲得すると、オールスターではあの古田敦也から1試合4盗塁の新記録を樹立してMVPに輝き、翌98年には西武優勝の原動力となりイチローを抑えパ・リーグMVPを受賞。99年にも3年連続盗塁王。そして、21世紀にキャリアの絶頂期を迎えるわけだ。
【トリプルスリー達成! 史上最強の1番打者と称された男】
「140試合 打率.332 36本 87点 33盗 OPS.1.006」
いきなりだが、これが02年の松井稼頭央の打撃成績だ。193安打でリーグ最多安打、NPB新記録のシーズン88長打、5試合連続本塁打、2試合連続サヨナラアーチ、そしてトリプルスリー達成。秋の日米野球では日本人選手18年ぶりの1試合2本塁打でメジャーリーガーたちの度肝を抜いた。その去就が注目されたが、11月26日の契約更改の席でポスティングシステムでのメジャー移籍を正式に断念する意向を西武球団へ伝えている。
なんでもできるスイッチヒッター、守ってはショートGグラブ賞。その圧倒的なスター性に魅了され、少年時代の憧れの存在として松井稼頭央の名前を挙げる現在20代のプロ野球選手も数多い。埼玉出身で89年生まれの中村晃(ソフトバンク)は子供の頃から大の松井ファンで自身の背番号を60から7に変更。侍ジャパンのショートを守る88年生まれの坂本勇人(巨人)や90年生まれの立岡宗一郎(巨人)も、少年時代の憧れは“西武の背番号7”と公言している。彼らはリトルマツイに死にたいくらいに憧れた世代である。
イチローに続き、松井秀喜も日本球界を去った翌03年、松井稼頭央は攻守ともに精彩を欠き不調と言われながらも、終わってみれば8年連続のフル出場で通算150本塁打、300盗塁を達成。7年連続の3割クリアで打率.305、33本の成績を残すと、オフに海外FA権行使へ。この時、子どもの頃に背番号8のパジャマを着るほどファンの原辰徳が指揮を執る巨人への移籍も考えたと言うが、まさかの原監督電撃辞任で消滅。ちなみに93年ドラフトでPL学園時代は投手の松井に対して野手指名を考えていると挨拶に来たのが、ダイエーと巨人の2チームだったという。だがフタを開けてみると3位指名をしたのは西武。まだ黄金期の錚々たるメンバーが残っていた王者からの指名に「嘘やろ!? なんで西武やねん。レギュラーなれへんやろ…」と絶望した少年は、10年後に日本最強のショートストップとして海を渡ることになる。
【メジャー初打席で初球先頭打者アーチの快挙】
個人的に、松井には感謝していることがある。2004年春、都内の小さなデザイン事務所に就職した俺は慣れない環境、と言うか今なら完全アウトのブラックすぎる会社に入社数日で心身ともにボロボロ。もう辞めよう、このままバックレようと思って朝起きてテレビをつけたら、ニューヨークメッツの松井稼頭央がメジャー初打席でバックスクリーンへホームランをかっ飛ばしていた。いきなりの初球先頭打者アーチ。ベースを回るメッツの25番を眺めながら、あぁもう少し頑張るよ…とベッドから這い出て出社した。結局、その事務所は半年ちょうどで退社することになるが、数カ月後にはタイミング良く希望していたサッカーデザインの会社に転職することができた。
今でも時々思う。あの朝、ベッドから松井稼頭央のホームランを見ることなく、ふて寝して会社を辞めていたら。今頃、俺はどこでなにをしていただろうな…と。大学時代に大阪ドームの内野席で見た三塁打、就職直後のテレビの向こう側のホームラン。日米通算2699安打の内のたった2本に、ある意味救われたのである。
もしも、42歳の松井稼頭央が来季、西武のユニフォームを着るようなことがあれば、また球場へ応援に行こうと思う。この10数年間の感謝を込めて。
(参考文献)
『メジャー最終兵器−わが決断−』(松井稼頭央/双葉社)
『日本プロ野球偉人伝 1997→99』(ベースボール・マガジン社)