少ない競技人口を逆手に。「環境を嘆いていても仕方がない」

――東京に移住してきて3年半余り。こちらの生活はいかがですか?

「だいぶ慣れました。妻はそれまで北海道から出たことのない人だったし、娘も当時10カ月くらいで。頼れる人が近くにいなくなる中、大きな決断をしてくれたと思います」

――移住を伝えるとき、どうやって家族を説得したんですか?

「ゴリ押しです。“僕一人じゃだめだな”と思ったので、全日本テコンドー協会の偉い方にも来ていただいて、東京にはいろいろな施設がそろっているし、住む家のあたりは治安がいいということを妻と妻の両親に伝えてもらいました。そのうえで僕の“東京に行きたい”という熱い気持ちをぶつけたら、特に反対もされず、“行きたいんだったらついていくよ”って言われました」

――頭が上がりませんね。

「そうです、だから家の掃除も僕がしたりしています(笑)」

――普段は健常のテコンドー選手と一緒に練習しているそうですね?

「テコンドーの強化合宿はオリ・パラ合同で行われているんです。もともとはパラだけでやっていたんですが、僕も含めて技術が低いですし、分からないことを誰に聞いていいか分からない状況で。去年から合同でさせてもらうことで健常の高いレベルの選手と練習ができるようになりました。パラのルールに合わせてもらって試合形式なんかも非常に多くできて、パラの強化選手全員のレベルが上がってきていると感じています」

――海外に比べると競技人口が多くない日本は切磋琢磨しづらいのではないかと思いましたが、それを逆手にとって健常の選手と合同で練習ができるというのは強みですね。

「もともと健常の合宿に行き始めたのは僕が最初で、すごくキツくてつらいって聞いていたんですが、行ってみたら勉強になることが多くて、“これはヤバイぞ”と。そこから他の選手も来るようになりましたが、彼らも自分自身の成長を感じているようです。2020年のことを考えれば、逆にそっちの方がよかったのかなとも思います」

(C)浦正弘

一夜にして変わった人生。その時…

――伊藤選手は4年前、北海道の工場での勤務中に事故に遭い、右腕を切断しました。当時、結婚してまだ1カ月、奥さんは妊娠4カ月。その時のことは覚えていますか?

「手術室に運ばれるまでの記憶はだいたいあります。その日は夜勤で、機械に右腕が挟まって、痛くてうずくまって、大声で助けを呼んで救急車が来て。その間、もう骨なんて絶対復元しないだろうなって自分の腕を見ながら思いました。そして、翌日目覚めると腕がなくなっていました」

――一夜にしてご自身の体が変わったわけですよね。その時はどういう心境だったんですか?

「もちろん最初の3日くらいは夢じゃないかって少し落ち込んだんですが、痛いし、夢じゃないなって。だから“仕方ない、当然だよね”って、とりあえず一度、現実を受け入れました。でも妻の方がすごく泣いていて“ああ申し訳ないな”って。事故を起こしたことに対して自分を責めるというより、家族を悲しませてしまったことに責任は感じていました」

――ショックは受けていたけれど、現実を冷静に受け止めていたということですね?

「そうですね、僕は現実しか見ないので。事故を起こして切断するまでに時間が結構あって、“もう生えないしな”、“(ドラゴンボールの)ピッコロじゃないしな”って、痛いながらもいろいろ考えて、ある程度の覚悟はできていました。じゃあこれからどうしようかなと。入院生活では3~4日で、左手でお箸を使えるようになりました。左手を使えなかったら食べられないし、食べられなかったら死ぬので。最近では字は書かなくても生きていけるので、いまだに下手くそなままです」

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過去でも未来でもない。見つめるのは今の自分

――腕をなくす前の人生と、腕をなくしたものの世界を目指す人生。想像もしていなかったと思います。2つを思い浮かべてみて、いかがですか?

「いや、腕がある方がいいですよ。だって右手がまだ痛いし、しびれるし、じろじろ見られるし。穏やかに生きていたかった。腕がない方がいいとは言わないです。でも、なくてもそれはそれで面白い」

――比較するものでもないですよね。

「“結婚するのとしないのとどっちがいいか“って聞かれるようなものですよね。結婚生活は僕自身すごく楽しいですけど、結婚しなくてもよかったって思う人も、独身を謳歌したい人もいるかもしれない(笑)。だから比べられないんです」

――確かに私も独身ですが、結婚している女性をうらやましいって思うことはあります(笑)。でも独身だから楽しい部分もあったり、逆にうらやましいって思われる部分ももしかしたらあるかもしれないですね。

――世の中の人たちにとっても、当たり前の日常が一瞬にして変わってしまうようなことは起こりうると思います。でも、伊藤選手を見ていると、過去や未来にとらわれずに“今の自分”を生きている気がします。

「“今のベストを考える”というのは、自分の生き方の一つの軸です。物理的に無理なことを一日中悩んでいてもアホらしいじゃないですか。僕の場合は左手の練習とか、競技をやってみようとか、時間を有効にプラスに使った方が絶対いいと思いますし、マイナスで考え続けているとアリ地獄になってしまう。一回でもいいからどこかでプラスのスイッチを自分で入れてあげると、たぶんハマることなく抜け出せるんじゃないかな。結局は自分次第なんだと思います」

(C)浦正弘

日本代表最年長。体力と向き合いながら世界の頂点へ

――伊藤選手は33歳。練習でも、“今の自分”をしっかり分析して取り組んでいるようですね。

「若い選手と比べて疲れが取れにくいんです。彼らは大きな大会が終わってもすぐに練習に行っていますが、自分はやっぱり体がつらいので、しっかり休んで回復させて。僕も毎日練習を詰め込みたいんですが、やり過ぎると確実にけがをする。だからコーチや師範のタイミングで練習するのではなく、自分のタイミングで練習するのは大事だと思っています」

――そういうところも、冷静に分析できていますよね。パラテコンドーをやる上での、モチベーションを聞かせてください。

「競技を始めてすぐに出場した2016年の国際大会で、初戦で世界ランク1位のガンバット選手(モンゴル)と対戦して負けたんです。その時に“絶対4年後に倒してやろう!”って火が付きました。“こいつヤバイ!”って思いましたけど、“僕ならできる”と思えた自分もいたんです」

――2020年の本番まで、あと1年半。世界との差を詰めるためには、何が必要だと思いますか?

「今、海外では10代の若い選手が台頭してきています。20代中盤以降の選手が多い日本の選手たちに同じ動きをしろと言われてもできない。だからすべてをまねするのではなく、相手の弱点を突いたり細かいところを詰めていくのが大事かなと思います。今しっかり自分ができることをして、2020年東京パラリンピックでは僕が金メダルを取ります」

――金メダルを取るその姿は、イメージできていますか?

「めっちゃできています。決勝で世界ランク1位のガンバット選手と再び対決して、最後に僕の得意なティッチャギ(後ろ蹴り)かまして最後に逆転して、“ハイ終わり!”といきたいですね」

<了>

(C)浦正弘

[PROFILE]
伊藤力(いとう・ちから)
1985年生まれ、宮城県仙台市出身。株式会社セールスフォース・ドットコム所属。高校2年時に家庭の都合で北海道へ移住。29歳の時、勤務中に工場で腕を機会に挟まれる事故に遭い、右腕上部を切断。退院後はアンプティサッカー(切断障がい者サッカー)もしていたが、関係者の紹介でパラテコンドーに出会う。2016年7月に東京に移住。2020年東京パラリンピックの正式種目に加わったパラテコンドーで、初代王者を目指している。家族構成は妻と一女。


VictorySportsNews編集部