「人より馬が主役」 選手よりも手厚いケア
オリンピック競技の中で唯一動物が出場する馬術。選手も馬も、男女年齢問わず同じフィールドで戦う競技でもある。田中選手曰く「人よりも馬が主役」というが、動物との“ペア競技”のトレーニングはどのように行われているのだろうか。
田中利幸選手(以下、田中)「選手だけで行う筋トレや持久力系のトレーニングの時間は全体の3割くらい。他はすべてパートナー馬との時間です。騎乗するだけではなく、馬の世話や手入れなども競技への準備として非常に大切な“練習時間”。大会では、馬との信頼関係がものをいいます」
田中選手とパートナー馬「タルマダルー」は6年の仲。馬のケガ=パートナー解消となってしまう馬術の世界では、比較的長い方だという。馬のパフォーマンスのピークは15〜6歳。タルマダルーは14歳で今大会を迎える。
田中「人よりも、馬のコンディション管理の人員のほうが多いんです。馬の蹄に蹄鉄を打つ装蹄師、獣医はもちろん、マッサージ師や馬専門の整体師までいます。人間の整体と同じで、首や腰などの骨がバキバキなるのですが、馬も暴れることなく施術を受けています」
大会が一年延期になったことは、より高いレベルを目指すうえでプラスと捉えて練習に臨んだという田中選手。2011年からイギリスを拠点に活動していたため、ロックダウンも経験。馬との接触は可能だったため、一年間再調整を行なった。人間の世界では、大会延期によるモチベーション維持に悩む選手も生まれたが、馬の場合はどのようなことが起こりうるのだろうか。
田中「馬の場合はモチベーションの上がり下がりというのはないと思います(笑)。ただ、世話をする人間側がいつもと違う動きをすると、緊張につながることが多いですね。大会前であっても、いつも通りを意識し、練習通りのパフォーマンスを発揮してもらえるようにしています」
中3でバレーから転向。自分の合図で馬が動く感動が原動力に
田中選手は中学3年生の夏、今も所属するクレイン福岡で初めて乗馬を体験した。馬が自分の指示に従って動いてくれた感動が忘れられず、バレーボールをやめて乗馬に没頭。馬術部のある高校を選んで進学し、大学からは再びクレイン福岡で練習を続けた。2011年に馬術の本場である、イギリスに拠点を移し、今年で10年となる。
田中「今でも覚えているのは、自分が合図した通りに馬が動いてくれた感動ですね。そこからのめり込んでいきました。なかなか思い通りに動いてくれないこともありますが、そういうときは「お願いします」という気持ちで(笑)。僕がこうしたいと合図するだけではなく、いかに気持ちよく動いてもらうかが大切です」
馬との信頼関係が何よりも大切な競技のため、毎日馬と接するという田中選手。しかし自身も2017年には落馬による頚椎骨折という大怪我を経験した。全治三ヶ月のリハビリ生活の間は馬に乗ることができず、不安な日々を過ごした。その時感じた馬に乗れない辛さをバネに、2018年9月に開催された世界馬術選手権で団体4位、日本勢トップの個人15位という大躍進。2020年の国際大会では個人優勝を勝ち取り、オリンピックに向けて勢いに乗る。
田中「イギリスの競技環境は非常に恵まれています。年間で大小約200の競技会が開催されており、レベルも高い。イギリスでの経験が成長につながっていると実感しています」
馬が気持ちよさそうにしているか。シンプルな楽しみ方が魅力
総合馬術競技は馬場馬術競技・クロスカントリー競技・障害馬術競技の3種目を3日間かけて行う。馬の交替は認められず、同じ馬で戦い抜かないといけないので、パートナー馬一頭の性格や能力を把握し、3日間のコンディションをどのように整えるかもカギとなる。テレビ観戦の見どころはどこにあるのだろうか。
田中「一番の見どころは自然の中に設置された障害を越えていくクロスカントリーですね。ものすごいスピードで馬が走る迫力とその疾走感をただただ味わっていただけたら。ルールがよくわからなくても、馬が気持ちよさそうに池や柵などの障害を越えていれば成績が良いケースが多いです(笑)。逆に、馬が嫌がるそぶりを見せていればスピードも落ちますし、減点が増えてしまいます」
たてがみをなびかせ、颯爽と芝生を駆け抜けていく。力強く大地を蹴り上げ、その振動さえも伝わってきそうな馬の姿と、その動きを指揮する選手を見ていると「気持ちよさそう」というシンプルな感想が生まれてくる。実際、乗馬は趣味のスポーツとしても注目が高まっている。ホースセラピーというリハビリもあるほどの癒し効果と年齢に関係なく楽しみ続けられるところも人気の理由だ。
田中「馬に乗ると、意外なほどの大きさに驚くはず。触れると、体温も感じられます。バイクや自転車のような乗り物とは全く違う感覚を味わってほしいですね。徐々に慣れてきて走れるようになると、どんどん楽しくなっていくのではないでしょうか」
馬に合図を送り動いてもらうことはとても難しい。コツを尋ねてみると「それは、気持ちです」とのこと。車のハンドルを切るときに、思いを込めることはないだろう。血の通った存在との「ライディング」は、言葉を超えたコミュニケーションだ。人と馬が共に大舞台でチャレンジする姿に感化されたら、心が自然に呼ばれている証かもしれない。
(取材日:2021年7月12日)