だが、そんな期待競技に暗い影を落としている問題がある。五輪出場基準を巡る、日本山岳・スポーツクライミング協会(JMSCA)と国際スポーツクライミング連盟(IFSC)の対立。昨年11月にJMSCAがIFSCを相手取り、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴したこの問題は、一冬が過ぎ、春が訪れた今になっても解決に至っていない。CASの判断で命運が左右される立場にある選手からは「もやもや感、ストレスは常に感じている」などと切実な声が上がっている。
■曖昧だった五輪出場基準
問題が起きた原因は、IFSCが五輪出場基準の解釈を途中で変更したことにある。
2019年3月、IFSCが東京で開いた総会後の記者会見。机の上には、出場基準を説明する資料が置かれていた。要点は以下の二つだ。
① 19年8月の世界選手権、11~12月の五輪予選(フランス)、20年の各大陸別選手権で上位に入った選手が「quota place(割当枠)」を獲得する。
② quota placeは選手本人に付与される。
五輪切符には大きく分けると二つの種類がある。条件を満たした選手が個人の権利として手にする「出場権」と、その選手が所属する国・地域に割り振られる「出場枠」。出場権の場合はほぼ例外なく、獲得した選手が五輪代表に自動決定する。出場枠の場合は各国・地域がどの選手を代表にするか、選考基準をつくって任意で選ぶことになる。
他競技の場合、①②のような記述がされていれば、ほとんどが「出場権」の解釈となる。クライミングで五輪に出場できるのは1カ国から男女それぞれ最大2人。この解釈ならば、最初の指定大会となる世界選手権で日本勢の2人が上位に入った場合、この2人が出場権を獲得して五輪代表に決定。五輪に出場できる1カ国の上限に達するため、その後の大会では出場権を獲得できないことになる。
しかし、総会での会見で、IFSCは世界選手権などの上位者に与えられるのは出場権でも出場枠でもなく、五輪出場の前提となる資格(以下「参加資格」と呼ぶ)だと説明。このため世界選手権の優勝者であっても五輪代表には自動決定せず、3大会で「(1カ国が資格を)三つ以上獲得することも起こり得る」との認識を示した。説明にはあいまいな部分も残り、報道陣の質問は相次ぐ。混乱の中、会見は終了した。
実はこの総会以前から、IFSCが基準の解釈を明確にしてこなかったため、JMSCAを含む各国からは確認を求める問い合わせが相次いでいた。総会で五輪代表は各国が任意で選考するとの方針が示されたため、JMSCAは5月、日本の代表選考基準を作成して発表する。この選考基準を要約すると
① 世界選手権の複合決勝で7位以内に入った日本勢のうち、最上位者が五輪代表に決定。
② 残る1枠は3大会で参加資格を獲得した選手の中から、20年5月の「複合ジャパンカップ」の結果で決める。
というものだった。
選手に五輪への道筋が示され、迎えた昨夏の世界選手権。東京開催で地元の声援を受けた日本勢は、期待通りの活躍を見せた。五輪種目の複合で男子は楢崎智亜(TEAM au)が優勝、女子は野口啓代(同)が2位となり、日本の選考基準を満たして五輪代表に決定。男子4位の原田海(日新火災)、女子5位の野中生萌(XFLAG)は参加資格を手にし、残る2大会で同じように資格を得た選手と複合ジャパンカップで争う―。はずだった。
■振り回される選手たち
事態が急変したのは、夏の熱戦から約2カ月が過ぎた11月1日だった。JMSCAは「日本代表選手選考について」との題で記者会見を開催。その場でIFSCが世界選手権後に出場基準の解釈を変更したこと、「参加資格」はやはり「出場権」の意味で、日本の2枠目が原田と野中で決まっているとの認識を示していることが明かされた。これにより、五輪予選と大陸別選手権に出る選手にも五輪の可能性を残していた日本の選考基準は意味をなさなくなる。JMSCAは新解釈の取り消しを求め、「苦渋の決断」と自分たちの統括団体であるIFSCを相手にCASに提訴した。
JMSCAの選考基準では、世界選手権で切符をつかめなかった選手にも五輪のチャンスは残されていたが、IFSCの新解釈ではチャンスは既になくなっている。選手にとっては青天のへきれきだっただろう。女子の伊藤ふたば(TEAM au)は解釈が変わったことで「(五輪に)出られなかったらショックだなと思った」と述懐した。五輪予選では「日本は既に2人が五輪代表に決まっている」との実況が響く中で伊藤らは戦った。
提訴がなされた以上、今後の焦点はCASがいつ裁定を下すかだ。関係者が待ち続ける中、CASは2月に、この問題の聴聞会を4月1日に設定。さらに新型コロナウイルス感染拡大の影響でこの日程も延期され、裁定が出るのはさらに先に。長期化が避けられなくなった。IFSCのマルコ・スコラリス会長が「CASは(19年の)年末か1月初旬にも裁定を下すだろう」と話すなど、双方が早期決着を期待していたが、思惑通りに事は運ばなかった。
伊藤らにとっては、五輪のチャンスが残っているのかどうか分からない状態のまま日々の練習や大会に臨んでいる。モチベーションに与える影響は相当な物があるだろう。原田や野中にとっても、JMSCAの主張が認められれば日本の選考基準が復活し、5月の複合ジャパンカップが重要な一戦となるため、ピークを合わせなければならない大会が五輪より前に発生する。調整方法も左右するだけに、野中は2月のスピード・ジャパンカップで「いいかげんにしてくれよと、正直思う。なるべく早く決めてほしい」と率直に胸の内を明かした。
■求められる組織としての成長
IFSCはメディアの問い合わせに対し、外部の指摘を受けて出場基準の解釈を変更したことを認めた。しかし、未だに変更についての公式な説明は行っていない。IFSCのある幹部は「経験したことがない状況に追いやられている。いろんな人が小さなミスをしてこういう状況になった」と話したが、当初の解釈の設定を含め、初めて五輪に採用された競技の統括団体として経験不足を露呈する形になった。また、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期になったアジア選手権を巡っては、韓国での報道によるとIFSCから各国に対して中止の連絡があったとされるが、その後にIFSCが延期を改めて発表するなど、出場基準以外でも混乱は生じている。
国際オリンピック委員会(IOC)も、若者に人気のスポーツクライミングにかける期待は大きく、24年パリ五輪でも採用される見込みとなっている。東京五輪では3種目の複合で争われるが、パリでは複合はボルダリングとリードの2種目による形式が提案されており、IFSCは新たな順位算出方式や出場基準を定める必要がある。今回のように混乱が起き、影響を受ける選手が発生するような事態が繰り返されてはならない。組織としての成長がなければ、競技に明るい未来はない。