ただし、引退への兆しがなかったわけではない。2020年1月に、テニス4大メジャーであるグランドスラムの初戦・オーストラリアンオープンで、シャラポワはWTAランキングが145位と低かったため、ワイルドカード(大会推薦枠)を獲得してプレーしたものの1回戦で敗退していた。この結果ランキングを200位以上落とすことになり、今後のことは「わからない」と明言を避けていたが、結局この大会が彼女にとって現役最後の大会となった。

 モデル並みの長身でスタイルが良く、眩いばかりのブロンドをなびかせ、誰もがうらやむ美貌から女子プロテニスでアイコンになるほどの輝かしい存在であったシャラポワ。カリスマ性も兼ね備えていた選手であった彼女からすると、引退試合が行われず、ファンの目の前で別れも告げず、あまりにも寂しいさよならではあった。
 つい彼女の美貌から派手なイメージを持ってしまいがちだが、「自分はパーティーを好むような人間ではないの」と自身で語っていたように、実は案外彼女らしいひっそりとしたラケットの置き方だったようにも感じられる。

■努力の人

 誤解を恐れず正直に言えば、決してシャラポワは才能あふれる選手ではなかったと思う。
 技術的に器用な選手ではなかったし、ショットのタッチやセンスが抜群によかったわけではなかった。身長188cmから繰り出される高速サーブは、武器の一つだったが、ダブルフォールトも多く、ひとたびリズムを崩すと修正するのは容易ではなかった。グランドストロークは、直線的な弾道を描くフラット系の強打一辺倒で、フットワークは長い足を持て余すようにバタバタしていた。
だが、シャラポワは努力の人であった。
 スポーツ界では努力を続けることも才能であるとよくいわれるが、彼女は努力し続けることにおいて才能が飛び抜けていた。テニスに対して実に貪欲で、一球入魂といえるような闘争心に満ちあふれていた。彼女の美しさとは反比例するかのような、ボールを打つ時のうなり声、いわゆるグランティングはひときわ大きく、シャラポワの代名詞の一つでもあった。
 さらに、シャラポワの勝利への執念は凄まじく、女子プロテニス選手の中では間違いなく世界トップクラスだった。大事なポイントが決まれば、「カモン!」と叫びながら大きなガッツポーズを作り、どんな逆境にも負けずにプレーする勇姿はまさに女戦士だった。

 このシャラポワの勝利への執着は、ロシア出身の彼女が幼児期に過ごした過酷な経験と無関係ではないだろう。
 4歳でテニスを始めたシャラポワは、6歳の時にモスクワでのエキシビションで、往年の名選手であるマルチナ・ナブラチロワに才能を見出される。その後、ベラルーシ出身の父親ユーリ氏と一緒に、7歳の時に渡米して、9歳からフロリダにあるIMGアカデミーで、ニック・ボロテリーコーチの指導を受けたのだった。
 そして、2004年7月に、シャラポワが、わずか17歳2カ月でウィンブルドン初優勝したのは、あまりにもセンセーショナルで、シンデレラストーリーのようだった。

 さらに、2005年8月22日には、18歳4カ月という若さでロシア人初の世界ランキング1位に輝いた。
「テニスをプレーし始めてから、ずっとナンバーワンになりたかったの。その目標が達成できて本当に驚いています」
 シャラポワはこのように語ったが、さまざまな大舞台で、彼女のひたむきな闘志から大きな勝利や地位を引き寄せたといっても過言ではないだろう。
 そんなシャラポワの強い精神力を、シャラポワと同じロシア出身で、グランドスラムで2回優勝したスベトラナ・クズネツォワは次のように語ったことがある。
「最後まで戦い抜く強いメンタリティーは、ロシア人特有です。マリアは、アメリカに渡って、それに磨きがかけられた」

■成し遂げた快挙

 もともとシャラポワは、オリンピックへの熱量は大きかったが、オリンピックが近づく時だけ女子国別対抗戦フェドカップに参戦するという傾向があった。そのため、フェドカップを主催する国際テニス連盟(ITF)は、プロテニスプレーヤーがオリンピックに参加できる条件として、オリンピックとオリンピックの間に、最低3回プレーしなければいけないという条件を設けた。このルールは、オリンピック好きだけど、基本的にフェドカップでプレーをしたくないシャラポワをけん制するようなものだった。

 だが、熱意とは裏腹にシャラポワが、オリンピック出場を果たしたのは1回だけだった。
 2008年には右肩の痛みによって、北京オリンピック直前に出場を断念し、結局同年10月に右肩の手術を行った。
シャラポワの愚直なまでのひたむきな努力は、手術後に再び実を結ぶことになる。彼女が一番苦手としていたクレー(赤土)コートの克服につながり、それは、2012年ローランギャロス初優勝という大きな結果に結びついた。当時、クレーのグランドスラムで、シャラポワが優勝できるなんて、私も含めてほとんどの人が想像していなかったことだった。だが、クレーでの長期戦に耐え得るフィジカルとメンタルを身につけ、フットワークを改良して、トップスピンのボールを巧みに操りながらシャラポワは大きな仕事をやってのけた。
「まったく思い描いていなかったことです。でも、(優勝した瞬間)ひざまづいた時、本当に特別なことなんだと実感した」
このタイトルによって、シャラポワは、2004年ウィンブルドン、2006年USオープン、2008年オーストラリアンオープンを含めて、テニスの4大メジャーをすべて制するキャリアグランドスラムを達成。女子テニス史上10人目で、オープン化(プロ解禁)以降では6人目の快挙を成し遂げた。
「長い旅路でした。私は、いつももっとできる、もっといい選手になれると信じてきた。たとえそれがクレーであっても」
自分の力を信じてきたシャラポワは、キャリアグランドスラマーとなって、ついにテニス史に名を残す名選手の仲間入りを果たした。
そして、2012年にウィンブルドンで開催されたロンドンオリンピックでは、念願のオリンピック初出場を果たし、銀メダルを獲得してオリンピアンにもなった。

■日本との縁

 実は、シャラポワは、日本と縁深いキャリアを過ごしてきた。
 2001年にわずか14歳でプロへ転向し、一般大会での初優勝は、ツアー下部にあたる国際テニス連盟(ITF)主催の2002年ITF草津大会(群馬)だった。
 そして、16歳で2003年10月にジャパンオープンでWTAツアー初優勝を飾った。第1セットを取られてからの逆転勝ちだった。シャラポワは抹茶アイスが大好きで、大会のレセプションパーティーではおいしそうに食べる可愛らしい姿も見られた。
 シャラポワは、2004年ジャパンオープンで2連覇を達成するが、その時の優勝会見で珍事件があった。彼女は、優勝会見の席につくなり、優勝トロフィーをジッと見つめ、「私の名前がない!」と第一声を発し、トロフィーのプレートに自分の名前が刻まれていないことを指摘した。大会主催者である日本テニス協会のあまりにも恥ずかし過ぎる不手際だった。

 その後、ジャパンオープンに出場することは2度となかったが、幸いにもシャラポワは来日し続け、東レ パン・パシフィックオープンテニスでは、2005年大会で初優勝を飾った。
「日本に来るたびに、自分のゲームのレベルが上がっているようです。日本にはいい思い出がたくさんあり、インスピレーションを感じます。ファンの温かい応援も私の力になっています」とシャラポワは、日本のテニスファンが喜ぶコメントを残した。
さらに2009年の優勝は、右肩の手術をして復帰後の嬉しい初タイトルとなり、やはり日本は彼女にとって幸運な場所ということを再び印象づけた。

 2000年代中盤当時、日本でのテニス人気はかなり低かったが、2004年ウィンブルドンでのシャラポワ初優勝によって、テニスは知らなくても、シャラポワの名前だけは知られている状況になり、2005年12月には、大阪、名古屋、東京を回る「シャラポワツアー」というエキシビションが開催された。バッグなどのブランドであるサマンサタバサとコラボして、モデルも務めたシャラポワは、当時18歳だったにもかかわらず、立派にツアーの主役を務めたが、最後は大好きな日本食のことを話しながらまだあどけなさが残る笑顔を見せた。
「楽しみなことは、最後にとっておく主義なので、大好物のしゃぶしゃぶは、(ツアー最終日の)今夜食べに行こうと思います(笑)」
 シャラポワの現役時代の最後の来日は、2015年12月に神戸で開催されたIPTLだった。

■険しかったキャリア終盤

 シャラポワのキャリア終盤は、それまで歩んできたトッププレーヤーの花道とは一転して、厳しく険しい道のりとなった。
 2016年1月のオーストラリアンオープンで、禁止薬物のメルドニウムの陽性反応が出て、ITFより2年間の出場停止処分が下される。メルドニウムは、狭心症の治療薬として、ロシアとリトアニアで使用されている。当時28歳だったシャラポワにとって2年は長すぎると不服申し立てをして、スポーツ仲裁裁判所に提訴し、最終的に15カ月の出場停止となった。2016年3月にロサンゼルスで、自ら記者会見を開いて弁明するシャラポワだったが、過失があったのかどうか、現場を見ていなければ決してわからないドーピング疑惑特有のグレーな部分は正直最後まで残った。

 出場停止が終わってから2017年10月には、WTA天津大会で優勝し、ツアー36勝目を挙げたが、これが現役でのラストタイトルとなった。
しかし、2018年頃から右肩の痛みに悩まされ、2019年2月に再び右肩の手術をしたが、世界のトップレベルに返り咲くことはできなかった。
 最終的に、シャラポワは、グランドスラムに58回出場し、5回の優勝を飾った。最後のグランドスラム優勝は、2014年ローランギャロスだった。

■大きな影響力を持つ彼女の未来

 4月19日に33歳になったシャラポワだが、彼女のセカンドキャリアは、一体どんなものになっていくのだろうか。一般社会で30代前半といえば、まだまだ若い部類に入り、彼女には公私共にいろいろな可能性が秘められている。
 最近では、新型コロナウィルスのパンデミックによって、世界中の人々の気持ちが落ち込む中、シャラポワは、自身のTwitterで連絡先を公開してファンとの交流を図り、相変わらずの人気ぶりと存在感を見せている。
 現役時代から彼女は、ポルシェやエビアンのブランドアンバサダーを務めたり、自身のキャンディーショップ「シュガポワ」を立ち上げたり、さらに「スーパーグープ」というスキンケアブランドの共同経営者になったりして、テニス以外にも精力的に活動してきた。
 今後、影響力の大きいシャラポワだけに、テニスのさらなる発展のため、何かテニスに携わった活動を願いたいところだが、その心は彼女のみが知るところだ。
 そして、コロナショックの今、シャラポワが残してきた約17年間におよぶプロフェッショナルとしての壮絶なキャリアに思いを馳せる時、一時代を築いた彼女のどんな逆境にも負けない執念が伴う力強い生きざまは、われわれに自然と漲るような勇気を与えてくれ、さらにウィルスに打ち勝った先にある燦然と輝く未来を見据える力をも宿してくれるようだ。


神仁司

1969年2月15日生まれ。東京都出身。明治大学商学部卒業。キヤノン販売(現キヤノンマーケティングジャパン)勤務の後、テニス専門誌の記者を経てフリーランスに。テニスの4大メジャーであるグランドスラムをはじめ数々のテニス国際大会を取材している。錦織圭やクルム伊達公子や松岡修造ら、多数のテニス選手へのインタビュー取材も行っている。国際テニスの殿堂の審査員でもある。著書に、「錦織圭 15-0」(実業之日本社)や「STEP~森田あゆみ、トップへの階段~」がある。ITWA国際テニスライター協会のメンバー 。