「トップクラスの選手とのレベル差を感じることが多かった」小中学校の思い出

自転車に乗るのは昔から好きでしたね。
競技として本格的に自転車を始めたのは高校生になってからで、その前までの小・中学生の頃は水泳に打ち込んでいました。一時はトップクラスの選手を目指して励んでいたこともありましたが、経験を積むにつれてレベル差を大きく感じるようになっていきました。
2002年に横浜でパンパシフィック水泳選手権が開催され、現地まで見に行きました。そのときに、驚愕と落胆を覚えて帰ることになったのを今でもはっきりと覚えています。当時、少し上の世代の選手が国を代表して泳いでいたのですが、彼らのタイムと自分のタイムを比較するとあまりにも差があり愕然としました。自分はあと数年でこのレベルには到達できないのではないかと感じましたね。その後、中学生のときには県大会などに出場しましたがその度にトップとのレベルの違いを感じるようになり、中学校を卒業する頃には水泳で頂点を目指すことをあきらめる気持ちが強くなっていきました。
それでも高校入学当初は水泳を続けようと考えていましたが、進学した広島工業高校にはそもそも水泳部がなかったのです。それで新しいことへチャレンジせざるを得なくなったのですが、そのとき楽しかった自転車の記憶を思い出しました。

「スピード感や風を切る感覚に心を奪われた」自転車競技に惹かれたきっかけ

広島市でも海沿いで広島競輪場の近くで生まれ育ち、小さな頃からどこへ行くのにも自転車で移動していました。そのなかでも鮮明に覚えているのが、まんが図書館からの帰り道ですね。比治山というところに広島市まんが図書館という施設があるのですが、中学生の夏休みには友だちと一緒に毎日のように通っていました。そこは小高い丘の上にあるのですが、その帰りの下り坂を自転車で走るのが気持ちよく楽しかったのです。当時は街乗り用の軽易なクロスバイクのようなものに乗っていましたが、それでも下り坂を疾走するスピード感や風を切る感覚に心を奪われましたね。そういった楽しかった思い出が自転車競技部への入部を後押しし、新しいチャレンジのきっかけとなったのです。
高校生から本格的に自転車競技を始めることになり、レース用の自転車にはそのときに初めて乗ることになります。そこに用意されていたのは、ギアチェンジが手元のハンドルにもついていない古いタイプの自転車で最初は乗りにくいと感じました。それでも普段に乗っている自転車に比べるとタイヤも細くて車体も軽く、すぐにスピード感を感じられるようになりました。とはいえ、いきなりレースができるわけもなく、基礎体力づくりのためローラー台の上を走り40〜50キロという一定のスピードをキープする練習ばかりで体力的に厳しい思いをしました。それでも水泳をやっていた頃より楽しかったのです。モチベーションが低下した状態で取り組む水泳より、肉体的なきつさを感じてもモチベーションの上がる自転車のほうが楽しく、そこからドンドンとのめり込むことになりました。

「最も脚力のある速い人が勝つというだけではない」

そして、高校2年のときに競輪選手になる決断に至るわけですが、高校生の頃から競輪を専門にしていたわけではありません。高校の自転車競技部の大半は、ロードもトラックも分類することなく一緒の練習を行います。そもそも高校生にはバンクのあるトラックを走れる機会が少なく、基本的な練習はロードになります。ですから、分けようにも環境的な問題で分けられないというのが実情でしょう。僕も例に漏れずに高校の3年間はロードとトラックの両方を取り組みましたが、やはりトラック競技のほうが好きでしたね。
トラックにはゴールまでの時間を競うタイム・スプリントや通過順位で加点されるポイントレースなどさまざまな種目があります。さらに競輪やスプリントという競技では相手の駆け引きが必要になり、最も脚力のある速い人が勝つというだけではありませんでした。もちろんロードよりトラックのほうがスピードを出しやすいというのも好きになった要因のひとつですが、トラック競技はより頭を使った駆け引き次第で勝てるとわかってからは、さらにその魅力に惹かれていきトラックが好きになっていきました。

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「レースのときに絶えず笑みを浮かべていた」

そうやって自転車の虜になっていった僕は、レースのときに絶えず笑みを浮かべて走っていたようです。その楽しそうにレースに挑む様子を見た顧問の先生が、競輪選手に向いているとひらめき道を示してくれました。その話は高校2年生のときでしたが、最初は高校生から始めて競技経験の少ない自分が競輪選手になれるものなのかと半信半疑でした。それに、その年のインターハイで全国大会に出場できましたが、飛び抜けた実力で周囲を圧倒するようなレースをしたわけではなく、自身としては特別な才能があるようには感じていませんでした。その思いを素直にぶつけたら、顧問の先生は小さな頃からやっている選手より高校生から始めた選手ほうが多いことを教えてくれました。先生には好きこそものの上手なれという考えがあったようで、それこそが一番の才能と感じていたのでしょう。それを知ってからは、本気で競輪選手を目指していくことになります。
顧問の先生からアドバイスをいただいたのが、高校2年生のインターハイ前だったと記憶しています。そして、そのインターハイが終わった後に、スポーツジムを経営する競輪選手を紹介してもらうことになりました。その人から競輪界について詳しく教えてもらい、はっきりと将来を決断したことを覚えています。その後、その人から師匠となる脇田良雄を紹介され、競輪選手になるためのトレーニングを本格的に始動させることになったのです。
その頃から、もう勉強は必要と考えてとにかく自転車に集中することにしました。おかげで入学当初は一桁台だった学校の成績も、高校2年生が終わる頃には20番台くらいまでに落ちてしまいました。それでも、強い気持ちで自転車だけのことを考えていましたね。工業高校だったので周囲の友だちは、卒業するとほとんどが就職します。そんな中で競輪選手を目指して僕は、競輪学校の試験に落ちてしまうとニートかフリーターになってしまう。そうなってしまうと情けないので、それだけは避けたい、絶対に合格すると当時は必死でトレーニングに励みましたよ。
とはいえ、卒業までの間に自分の能力がどこまで伸びるのか見当もつかなかったので、1回目で受かるとは思ってもいませんでした。それまでにいろいろと教えてくれた関係者の人たちからも、何度も受けることになるだろうから、最初は試験のやり方を覚えるつもりでいろとアドバイスしてもらっていました。そういった状況を加味してくれたのか、母からは競輪学校を受けるにあたって3回までのチャレンジを許されていました。競輪選手を目指すことを決めてからさまざまな不安がありましたが、惑わされることなく逆に良き緊張感を持って挑めたのではないかと思っています。そして、見事に合格して高校卒業と同時に競輪選手への第一歩となる競輪学校へ行くことができました。

松浦悠士(まつうら・ゆうじ)
1990年11月21日生まれ(30歳)、広島県出身。98期生として日本競輪学校(現:日本競輪選手養成所)を卒業し、2010年7月に熊本競輪場でデビュー。G1タイトルは2019年11月小倉競輪祭、2020年8月オールスター競輪、そして今年5月には日本選手権競輪を制して「ダービー王」の称号を手にしている。S級S班は今年2年目で、現在の獲得賞金ランキングでは首位を独走。株式会社チャリ・ロトとは 2017年7月よりスポンサー契約を結ぶ。

(協力)チャリロト パーフェクタナビ編集部
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チャリロト「パーフェクタナビ」では、競輪・オートレース・自転車競技の最新情報を毎日発信。競輪選手やオートレース選手のコラムも数多く連載中。


VictorySportsNews編集部