野球帽と言ってしまうと、登下校する小学生が浮かぶ。日本語だからダサいわけではなく、アメリカにおいても、ベースボールキャップは〈ただの野球帽〉だった。そのただの野球帽をファッション・アイテムとして明確に提示したのは、スパイク・リー(Spike Lee)である。

 1956年、生まれ。NY大学の卒業制作『ジョーズ・バーバーショップ』で早くも注目され、32歳にして『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89年)で世界的な存在になった。その後も『ラストゲーム』(98年)や『25時』(2002年)、『ブラック・クランズマン』(2018年)など傑作をものにしているが、紛うかたなきマスターピースは『ゲット・オン・ザ・バス』(96年)で間違いない。

 この映画で、ルイス・ファラカンの呼びかけた「百万人大行進」に対する人々の楽観的な視点を揺さぶったのみならず、同じ年、スパイク・リーはさらにもうひとつの革命に手をつけていた。

別注という思想

 ニューエラ(NEW ERA)は、メジャー・リーグ・ベースボール(MLB)の公式キャップを製作、納入する唯一のメーカーである。1996年10月、NYヤンキースは、久しぶりにワールドシリーズに歩を進めていた。ニックスの次にヤンキースを愛する映画監督は、当然のようにベースボールキャップを被って、球場で歓声を上げた。

 そのスパイク・リーの姿に、皆が驚いた。誰もが知る真っ白なヤンキースロゴが、濃紺ボディではなく、誰も知らない真っ赤なボディに刺繍されていたからだ。メジャーリーガーが使う公式キャップの、初めての別注アイテム。

 この別注キャップを被ってワールドシリーズを観戦するスパイク・リーの姿が、メディアを通じ世界中に映し出された瞬間から、ベースボールキャップは、野球のユニホームだけではない別の意味を帯びるようになった。

ロゴが先か、キャップが先か

 もちろん、それ以前にも、ファッションにベースボールキャップを取り入れたアイコニックなヒーローがいなかったわけではない。自分の本棚から、写真集『FUCK YOU HEROES』を取り出し、サッと開くだけでも、いくつか見てとることができる。

 1976年から1991年までのスケートボード、ハードコアパンク、ヒップホップシーンを綴ったこの写真集には、ビースティ・ボーイズ(Beastie Boys)がNYメッツのキャップを着用している姿が写っていた。

 また、野球チームのロゴではなく、自身のバンドロゴをプリントしたキャップを身につけるスイサイダル・テンデンシーズ(Suicidal Tendencies)の姿も——ただし、こちらは、企業が自社のロゴをプリントしたキャップを、宣伝のために配っていた系譜から派生したアイテム(カジュアルファッションのジャンルでいうとスポーツではなく、ワーク)という、別の視点で受け取ったほうがいいのかもしれない。キャップの形(ボディ)にファッションとしての意味が付随するのではなく、あくまでロゴを周知させるための方便としてキャップが採用されていた、という見方。

 しかし、スパイク・リーとニューエラの別注キャップを皮切りに、アーティストやスケーターが生み出す〈キャップ〉と〈野球帽〉は、次第にストリートファッションとして融合し、一体化していくことになる。

市民権を得るまで

 このクロスオーバーを紐解く上では、のちにそのメインストリームとなるストリートブランドの誕生を語らない訳にはいかない。
 
 70年代後半から80年代初頭にかけて誕生したとされるステューシー(Stüssy)を皮切りに、グッドイナフ(GOODENOUGH)、エクストラ・ラージ(X-LARGE)、ア・ベイシング・エイプ(A BATHING APE®)、シュプリーム(SUPREME)など。

 日本とアメリカを中心にスケートボード、パンク、ヒップホップなどユースカルチャーに紐づいたアパレルブランドが誕生し、こぞってブランドロゴを配したキャップをリリースしたことが、〈路上のキャップ〉と〈球場の野球帽〉のハイブリッドに繋がっていった。

 けれど、これらのキャップが発売後ただちにストリートでの絶対的な市民権を得たとは言い難く、90年代中盤までは、スケーターやラッパーなど、ごく一部の人々の着用に限られていたのが、現実だ。例えば、当時流行した裏原宿というシーンにおいてさえ、ニット素材のベレー帽やハンチング、バケットハットなどの帽子の後塵を拝していたのだ。

 この序列を一変させたのが、スパイク・リーである。97年から2000年代にかけて、多くのラッパーがニューエラのベースボールキャップを被るようになった。世界の音楽シーンにおけるヒップホップの隆盛と共に、ベースボールキャップはストリートに浸透していった。ストリートブランドとニューエラのコラボレーション、スパイク・リーが啓示した〈別注という思想〉が燃え上がり、ニューエラのボディに各ストリートブランドのロゴを配したベースボールキャップが、続々とリリースされた。

 これによってついに、ユースカルチャーに由来したファッションと、ベースボールキャップが完全に一致。かつての野球帽は名実ともに、ストリートスタイルに欠かせないアイテムとして承認された。

ファッションへの道

 2000年代に入った頃、ストリート界隈で流行していた概念は〈ミクスチャー〉である。しかし、人種問題における「メルティングポットから、サラダボウルへ」の潮流とは逆に、ファッション業界全体としては「サラダボウルから、メルティングポットへ」と誘引力が働いていた。

 ベースボールキャップは、ストリートファッションへとミクスチャーされた後、次第に溶け合ったが、総体としてのファッションには融合していなかった。いや、約10年かけて一体化したと言うべきか。

 2010年代になると、ベースボールキャップを軸に〈ジャンルレス/ボーダレス/タイムレス/ジェンダーレス〉という、多様性の時代を迎えた現在の流れを想起させる出来事が、ファッションの世界で巻き起こった。いわゆるストリートスタイルのアイテムだったベースボールキャップが、メゾンブランドに身を包むモードの人々に浸透していくこととなったのだ。

 モードブランドで全身を固めながらも、被りもののみシュプリームのベースボールキャップ(ジェットキャップというアウトドア由来のキャップとともに)を取り入れたスタイルが、その象徴だろう。

 さらに類似のスタイルが、メンズだけでなくレディースにも派生し、日本ではギャル文化にまで浸透。ストリート、メンズのみならず、あらゆるジャンルのファッションを愛する人々に、ベースボールキャップが受け入れられたのだ。

 ストリートとモード、男性と女性など、あえてカテゴライズすることなく、同価値で物事を捉えることが当たり前となった現代において、スポーツ、ストリート、ファッションという垣根を意識することなく、野球帽はよりニュートラルに、あらゆる人々に愛され続けている。

【スポーツとファッション】スニーカー・カルチャーを牽引するバッシュになったバスケットボールシューズ①

我孫子裕一

我孫子裕一(あびこ・ゆういち)。1977年生まれ。『GRIND』誌の創刊編集長を経て、フリーランスのクリエイティブ・ディレクターとなる。Viceジャパンでは編集執筆にとどまらず、Amazonと共同製作したオーディブルコンテンツ『DARK SIDE OF JAPAN  ヤクザ・サーガ』(https://www.audible.co.jp/pd/DARK-SIDE-OF-JAPAN-ヤクザ・サーガ-Podcast/B09HL3QDM2)の企画立案/リポーターも務めた。