東北の観光王の薫陶
日本館総本部建設に邁進している時に、本間の脳裏に浮かんでくる人物がいた。流浪の旅をしていた自分を拾い上げてくれた杉本行雄氏だ。杉本社長は人並みはずれた努力家であった。
伊豆の寒村の生まれである杉本行雄は、中学卒業後、北海道の炭坑で働いたことがある。生きるため職を転々とした後、幸運にも渋沢栄一に拾われ、そして直々に薫陶を受けた。
渋沢栄一は明治維新後、日本最初の銀行や生涯に500以上の会社の設立にかかわり、日本資本主義の基礎を築いたいわば経済界の英雄である。その栄一氏とその孫であり日本銀行総裁、大蔵大臣を務めた渋沢敬三の二代に杉本行雄は仕えたのだ。
昭和21年(1946年)、終戦後の財閥解体により渋沢農場を整理する必要に迫られ、渋沢農場の木材を製材し進駐軍に納めることとなり、杉本行雄が派遣されてきたのだが、製材事業が一段落したあと、十和田湖にホテルを建てるなどし、観光事業に踏み出した。一時、十和田観光電鉄や東京タワー観光バスの社長にもなるが、この鉄道・観光バス事業は労働争議のためうまくいかず、結局、怪商小佐野賢治に売却することになる。
仁徳を旨とする杉本社長が、労働争議で失敗するとは腑に落ちない思いがするが、労働争議の裏に、あるいは小佐野の黒い影があったのかもしれない。いずれにしても杉本は東北においては希有の事業家として名前を残した男であった。
アイディアの宝庫
杉本社長の経営哲学は、社員を絶対に解雇しないということであった。当時十和田湖周辺のホテル、旅館は冬季になると閉館していた。雪深い十和田湖へ冬季には観光客が行くことはなかったのである。
仕事にならない冬季の期間、料理長を含め従業員達は、東京などへ出稼ぎに行っていたのであるが、杉本社長は三沢に所有していた山林の樹の枝を払う仕事などをさせて仕事を提供し、同額の給料を従業員全員に払い続けた。その配慮に対し、従業員達は社長に恩義を感じ、今まで以上に懸命に働くようになった。
率先垂範の杉本社長は、広大な観光敷地内を移動する時はいつも徒歩で、急用時以外は社長車を使わなかった。敷地内の道路に煙草の吸い殻やゴミが落ちていることがある。それを社長自ら拾うのだ。大社長となった後もその姿は変わらなかった。本間は、杉本社長のそんな後ろ姿をいつも仰ぎ見ていた。
杉本社長は、新しいアイディアを次々と実行し、事業を発展させた。小川原民族博物館建設もそのひとつだ。その頃、青森県では陸奥小川総合開発が進められており、新たな工場を青森に誘致する計画があった。予定されていた開発地域には昔からの民家が残っており、そこに住む住民達は立ち退きを迫られた。杉本社長は住民達の心情に配慮し、自分の所有する小川原湖の敷地に、民俗博物館を造り古い民家を移転し保存した。
この方策は地元の住民に喜ばれ、立ち退きがスムーズに行われた。また地元民の多くを十和田観光開発の温泉やホテルで従業員として雇用した他、伝統技術や伝統芸能を保存継承している地元民には、移築先民家でその技能・芸能を実演してもらったりした。
また十和田観光電鉄のバスガイドの資質向上のために、観光客の少ない冬期間にガイド学校を開設し、ガイドを教育すると共に、観光バスガイド全国コンクールに出場させて上位入賞させ、十和田観光電鉄ここにありと全国にアピールした。そうした努力により、長らく赤字経営だった十和田観光電鉄の経営は黒字に転換され、株主へ一割配当することができたという。事業家としての、その人徳ある至誠一路の姿から、本間は多くの事を学んだという。