ビレイハウスの未来
山本がビレイハウスを訪れた翌年、ビレイにとってまたしても嬉しいプレゼントがあった。
ビレイハウスの活動を知ったバンコク在住の篤志家から、ビレイハウスに隣接する土地19ヘクタールを、無償で長期に貸与したいとの申し出があったのである。その広大な土地はほとんどジャングルだが、焼畑をして開墾すれば大農園を作ることができる。そしてビレイハウスの自立運営が可能となる。これほど有難い話はない。
本間がそのことをビレイに伝えると、ビレイは絶句したまま、本間館長の顔を見つめたそうである。
「ビレイさん、良かったね。ビレイハウスはこれからもっともっと発展するよ。カレン族の子供たちを幸せにすることができる。そうだ、その大農園でタピオカを栽培したらどうかな。この地域の土壌に合っているようだから、美味しいタピオカが沢山とれるはず」
タピオカは栽培が簡単で天候にも左右されず、また食用だけに限らず化粧品の材料として需要が伸びていることを、すでに本間は調査済みであった。
2015年から始まった開墾作業は教会信者や村民達の協力を得て1年ほどで終わり、2年目には整備された農地でタピオカ栽培が始まった。本間は開墾から作付までの間、幾度も現場を訪れ、開墾のための重機の手配や苗木購入などの支援をし、大農園立ち上げ作業をボランティアの仲間の先頭に立って共に汗をかいた。
ともかく19ヘクタールの大農場なのだ。タピオカ以外の野菜を作るスペースも十分にある。広大な畑にさまざまな野菜の種を播いた。1年後にはカボチャが大豊作となり、トラック1台分の収穫があったそうだ。
大農園のタピオカ栽培は、ビレイハウスの子供たち全員が手伝う。平日は全員が近くの小中学校に通っているので、涼しい時間帯の朝か夕方の1時間を、ボランティアの人達と共に作業している。
ミャンマー国内の内乱によって、カレン族が悲劇の難民となってから半世紀以上が経っている。タイ辺境の定住難民キャンプに隔離されている彼らにとって、タコラン村に完成したこの新しい孤児院は、民族の希望の星となったのかもしれない。
あれから10年
2024年現在のビレイハウスの生徒数(小、中、高生)は60人を超えた。本間はビレイハウスの子供たちにも合気道の指導をしている。彼の門下生あるいは交流のある若い有段者たちが、ビレイハウスの広場で子供たちに合気道を教えている。子供たちはそんな外部の青年たちとの交流を重ねて、彼らの関心は世界に向けられて行くことになるだろう。
東南アジア地域で、これほど恵まれた難民孤児施設はめったにない。ビレイハウスがこのまま順調に運営されて行くならば、この施設で生活した子供たちの中から、世界平和に貢献する人材が出てくるかもしれない。十数年に亘ってビレイハウスの建設と運営に心血を注いできた本間は心の底でそう願っているに違いない。
ビレイ牧師はアメリカのキリスト教・福音派の教団に属しているらしいが、今後その教団に搾取され、利用されないことを祈るばかりである。自称「さすらいの夢追い人」の山本はそんな呑気な夢物語を願っている。
しかし、本間は現実の直面する問題に胸を痛めているのだ。
本間の叫び
最後に本間自身のコメントをもって、本連載の締めくくりとしたい。
「難民が定住生活を始めると国連の関連機関からの支援はわずかとなります。そのため、ビレイハウスは自立運営が基本です。主な運営経費(施設建設予算、運営諸雑費、奨学金など)はAHAN日本館(NPO法人)が支援し、その他は開墾した農園で収穫される農産物販売収益などで維持されています。
ビレイハウスの施設運営はタイ政府の寛容な対応によって今のところ問題なく、現地の公立学校へも、子供たちは無料通学を許されています。地域外行動制限はありますが、許可申請すれば行動は可能です。
現在も続くミャンマーの国内紛争において、カレン族はその紛争の渦中にあり、両親、家族を亡くす子供たちが年々増加しています。ビレイハウスも60人を超える収容数となり、村内で占めるカレン族の子供の数がタイ国籍の村民の子供とほぼ同数となってしまいました。そのため、将来起こりうるさまざまな問題に備える必要が迫ってきていると感じています。特に現地村民との相互理解は最も重要で、ビレイハウスの存在意義を十分に理解してもらう事が喫緊の課題です。
微笑みの国と称される通り、村人たちは温厚で熱心な仏教徒であり、現時点では表立った問題は起きていませんが、村でのんびりと生活してきた村民と、命からがらこの地に逃れてきたカレン族の人々では、人生の価値観に大きな相違が見られます。
将来に大きな不安を抱えるカレン族難民は蓄え(経済活動)を重視し、村民をしのぐ生活をしている人々も現れ始めているのです。
やがてそれがビレイハウスへの反感となることを懸念し、相互理解を深めるため様々な交流プロジェクトも行っていますしかしながら、運営サポートをしている私も74歳となり、居住地デンバーとの年4回程度の2重生活に体力の限界を感じるようになりました。また今年は特に私個人の事業(レストラン経営)も忙しくなり、デンバーを離れる事が出来ない状況となっているのです。
昨年、タイのTV局がビレイハウスを取材し、2本のドキュメンタリーが放映され、タイ国内で反響を呼びました。その後、個人や企業からさまざまな援助がありましたが、今ビレイハウスが最も必要としているのは金品ではなく、多くの人々の理解だと思います。私は、ビレイハウスをタコラン村にとって誇りある人道支援の施設としてのステータスを築きたいのです。
かつて日本映画にもなった「鐘の鳴る丘」のタイ版ともいえるビレイハウスの子供たちは大変明るく勤勉であり、現地タイ住民の子弟とも良好な関係にあります。幼少期からビレイハウスで育った子供たちの中には、すでに短大や専門学校を卒業した者もおり、私の誇りとする子供たちに育っています。
紛争を逃れ、行き場を失った子供たち、その子供たちを必死に支え護っているビレイ牧師の存在を、日本の多くの人々に知ってもらいたいと念願しております」(本間学/談)