開祖と独立道場 

 本間が設立した合気道の道場、日本館は「独立道場」である。独立道場とは、統括団体に所属していない道場をいう。いわゆる武道の道場は、そのほとんどが統括団体に属している。合気道の場合でいえば、世界最大の統括団体は、開祖である植芝盛平の子孫が「道主」の座にある合気会だ。しかし、日本館は合気会には属していない。開祖の高弟であった塩田剛三や齋藤盛平の子孫たちの道場も同様である。

 本間が過去に記したコラムで明かした開祖の思い出には、独立道場を選んだ理由の一端が記されている。

〈 ある日の朝、突然「本部に行く」と開祖が言い出した。いつもの通り奥様に旅費の交渉が始まる。確か1回2万円ほど、奥様が箪笥から出して、お供の私に渡すのだが「それでは足りない」と、開祖と奥様の予算折衝が始まる。微笑ましいその交渉中の姿は、今でも忘れる事が出来ない。そのとき、奥様が口癖のように繰り返した言葉が「米櫃のこともあるから」であった。

 十数年たってからであろうか、斉藤守弘師範が「開祖はな、『米櫃の心配をしては合気を手ほどきしてはならん』とよく言っていたもんだ」と私に告げました。「米櫃」すなわち「生活の糧」を心配しながら合気道を指導してはならないという意味である〉

 そこで本間は、デンバーで日本館を開くにあたり、まずは米櫃の安定を考えて、日本食レストランを併設する形をとった。そうした副業なしに、純粋に弟子に対する指導料と昇段審査の審査料だけで生活することは、現実的ではなかったからだ。

合気道の指導以外の安定した経済的自立がなくては――家賃を払い、場所を借りて看板を出すことはできても――長期にわたる道場の維持と運営は困難である。自分の道場を持てば電話代から電気代、保険料、家族がいればその生活費。それらを賄うには、50人や100人の門下生では足りない。やがては人気稼ぎの客商売となって道場自体の腰が弱くなる。その先は、挫折への道。最後に残ったのは借金だけという話はいくらでも聞く。

〈 海外に目を向けてみよう。私は独立道場の指導者として様々な団体の合気道グループを指導してきている。もちろんその多くには合気道大手企業、合気会の傘下道場も含まれる。まず90%は組織上のトラブルを抱えている。その多くが金銭の流れに関するものである(…)さて残りの10%。比較的安定している組織の長とは、間違いなく何らかの合気道とはかかわりのない生業を持っている人である。つまりは「米櫃の心配のない人」といえる。但し、困った事に海外では段位が絶対的にものを言うため、ともすると経済力のある人は上部に対する上納金も多く、幾つもの講習会に頻繁に顔も出せるし、たまに指導に訪れる日本からの昇段審査権を持つ指導者に対して映りも良いため、袴もまともに着けられないのに高段位を持つ者が多い。

 過去、そして現在の日本の状況を見てもそれは解る。開祖時代に10段位を取得したのは殆どが地方の地主やその息子、あるいは裕福な家庭の者である。50代そこそこで10段位を貰った者までいる。現在の状況も大して変わらない。経済力のない人で支部長などになっている人などいない。
「米櫃の心配をして合気(武道)を指導してはならない」と言う開祖の言葉は非常に重要な合気道指導者への忠告である反面、金で地位を買い取るような不逞(ふてい)の輩(やから)がはびこる原因ともなる「両刃の剣」となりうる戒めの言葉でもある〉

 そんなわけで90年代以降2024年にいたるまで、本間は自身の生活費には日本食レストランの収益を充て、合気道の指導、道場運営で発生した収益は受け取っていない。それらの収益は、デンバーの路上やシェルターで暮らす生活困窮者たちへの炊き出しや、次号で述べる「亜範」の活動資金に費やされているのである。

Vol.33に続く

Project Logic+山本春樹

(Project Logic)全国紙記者、フリージャーナリスト、公益法人に携わる者らで構成された特別取材班。(山本春樹)新潟県生。外務省職員として在ソビエト連邦日本大使館、在レニングラード(現サンプトペテルブルク)日本総領事館、在ボストン日本総領事館、在カザフスタン日本大使館、在イエメン日本大使館、在デンバー日本総領事館、在アラブ首長国連邦日本大使館に勤務。現在は、房総半島の里山で暮らす。