来たる6月2日に東京ドームホテルで開かれる「世界チャンピオンとディナーのひととき」では具志堅さんが表彰を受けることになっている。このパーティーは、プロボクシング世界チャンピオン会が年に一度催すもので、今年も50人を超す元世界チャンピオンが出席を予定している。
現在、タレントとして活躍中の具志堅さんが現役時代はいかに強いチャンピオンだったか、いやボクサーだったことすら知らない人も珍しくないのかもしれない。そんな人たちには、ぜひこの半世紀前の一戦を観てみることをお勧めする。なにしろスーパーチャンピオン具志堅のベストという呼び声も高い試合なのだ。
当時、ジュニアフライ級はできて日の浅い階級で、具志堅の挑むグスマンにしてもWBAの第2代チャンピオンだった。この階級は最軽量だったフライ級のさらに下に設けられた。当初は「不要」だとか、あれこれと陰口をたたかれるのが新設クラスの宿命。ジュニアフライ級も同様だったが、そういった声を吹き飛ばすには試合で魅せるしかない。この点、軽量級離れした迫力ファイトを演じた具志堅の功績は大きいのである。
実際、ジュニアフライ級が1975年に設けられるまで、具志堅はフライ級で戦っていたが、ウェイト面では増量が必要なほど苦労していた。それゆえ金平正紀・協栄ジム会長は「具志堅のためにできたようなクラス」と歓迎したし、具志堅もようやく本領発揮と相成ったものだ。
下馬評を覆した奇跡
そうはいっても、グスマン戦の下馬評は具志堅にとって悲観的だった。ここまで25勝20KO1敗と高いKO率を誇り、1ラウンドKOは10試合もあったグスマンに比べ、8勝5KOの具志堅のレコードはいかにも頼りなく感じられたのだ。さらにグスマンには、ヘビー級のジョージ・フォアマンの小型版を意味する「リトル・フォアマン」なる異名もついていた。最重量級史上最高のKO率をマークするチャンピオンに最軽量級のグスマンがなぞらえられていたのである。
グスマンは来日後の練習でスパーリング・パートナーをKOし、報道陣を驚かせた。試合地の山梨・甲府に入ってからも、今度は偵察に来た具志堅本人の目の前でまた倒してみせ、ますますその怪物性を高めていた。
しかし本番でアッと言わせたのは不利予想の挑戦者具志堅だった。試合は1976年の10月10日、山梨学院大学体育館で行われた。恐怖心を胸にしまい込み、敢然とチャンピオンに向かっていった具志堅は、グスマンを2ラウンドに2度、4ラウンドと7ラウンドに1度ずつの計4度もダウンさせてノックアウトに仕留めたのだ。
3ラウンドには、逆にグスマンの左フックを浴びてぐらつくピンチもあった。しかし足腰の強い具志堅はここで倒れず、そして後ろに下がらず、近い距離で相手のパンチをかわして打ち合った。そして7ラウンドに左フックから右アッパーのコンビネーションで「リトル・フォアマン」をキャンバスに沈めるのである。ゾクゾクするほどスリリングな戴冠劇だった。
この試合で具志堅が見せた勇気はすごかった。のちに本人が「あの試合は挑戦者としてやったから勝てた。もし防衛戦のひとつだったらやられていたかもしれない」と語っている。リスクを飲み込み、守りではなく攻めの意識で中に入って打ち合ったから、自身の強打も当たったというのだ。
一方で具志堅に王座を明け渡したグスマンはこれがまだプロ2敗目だったが、以前の勢いがすっかりなくなって黒星続き。最後は3連続初回KO負けで引退してしまった。
受け継がれる魂
ときに沖縄が本土に復帰して5年目。具志堅の勝利に沖縄は大騒ぎとなり、那覇の国際通りで新チャンピオンのパレードも行われた。以降、栄光の具志堅時代が始まり、あとに続くチャンピオンも続出した。沖縄からは代々闘争心旺盛なファイター型が多く、オキナワン・ファイターの強さはボクシング界におけるブランドになった。昔に比べてハングリーな環境もなくなってきたからか、典型的なオキナワン・ファイターが出なくなった時期もあったが、いまも現役の比嘉大吾のようにその精神を体現する選手もいる。