文=内田暁

マリーを世界1位に押し上げたテクノロジーとデータ

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 ノバク・ジョコビッチのサーブがエースと判定されると同時に、アンディ・マリーは軽く右手を掲げ、「チャレンジ」と主審に宣言した。2017年開幕戦となるカタールオープン決勝戦の第1セット第1ゲームでの一幕――。

 マリーの「チャレンジ」の声に呼応するように、スタジアム内の巨大スクリーンにはジョコビッチのサーブがCGで再現され映し出される。放たれたボールがバウンドし、その場面にカメラがズームアップすると……映像はボールがほんのわずかにラインに触れていることを、つまりはエースが決まったことを示していた。モニターを見ていたマリーは、その事実を確認するとうらめしそうな表情を浮かべる。ただこの“チャレンジ”に活用されているテクノロジーとデータこそが、彼を世界1位に押し上げた要素の一つでもあるのだ。

2017年1月7日、カタールのドーハで行われたテニス男子シングルの決勝は、世界ランキング1位のマリーと同2位のジョコビッチが戦い、2-1でジョコビッチが勝利し優勝を手にした
テニス=ジョコビッチがマリー下し優勝、カタールOP| Reuters

 現在、テニスの公式戦で採用されている“チャレンジ”とは、ホークアイ社が開発したシステムを用いたビデオ判定ルールである。試合コートには10台のカメラが設置され、それらカメラが録画した映像を基に、ボールの軌道を示すCGアニメーションが瞬時に作成される。選手たちは試合中に、線審の判定に不満があればその場でチャレンジ施行が可能。チャレンジできるのは1セットに3回だが、成功すれば権利は減らずに維持できる決まりである。

 そのようにホークアイは、もともとはボールの落下点を特定するために、テニス界に導入されたシステムだ。とはいえ、この最新鋭のテクノロジーがデータベースに収めているのは、ボールの落下点だけではない。10台の高性能カメラはあらゆるショットの軌道を捕らえ、ボールの回転数やバウンド後に跳ねた高さ、あるいはどのコースにどれほどの確率でボールを打っているかなど、種々の情報を収集している。つまりはそれらのデータを分析すれば、特定の選手のプレー傾向を知ることや作戦立案にも活用できるだろう。現にオーストラリアではテニス協会がデータベースを作り、自国の選手やコーチたちが常時アクセスできる環境を整えている。

データ解析コーチを置くマリーとデータ会社に投資するジョコビッチ

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 ただそれらの情報をどう用いるかは、選手や指導者たちによって異なるようだ。例えば現在テニス界の頂点に立つマリーはデータを活用する一人。彼は「データはとても役に立つ。試合前に対戦相手の情報をいくつか頭に入れておくことは重要だ」とその有効性を認め、同時に「正しい使い方を知る必要がある」とも強調した。

「現在は、あらゆるデータや統計を手にすることができる。ただ、それら情報のうちどれを活用すべきかを判断できなくては、コートに立ったときに混乱してしまう。現に選手の中には、データを見ることを嫌う人もいる」。

 だからこそ大切なのは、データを分析し、必要な情報のみを与えてくれる指導者の存在だとマリーは続けた。

「僕にはデータ解析をしている時間はないので、コーチたちがやってくれる。彼らは、とても良い仕事をしてくれていると思うよ」

 そのマリーのライバルであるジョコビッチは、データ活用に関してはマリーのさらに上を行くかもしれない。現在、ホークアイと同様のテクノロジーを開発し、北米で勢力を伸ばしている企業にPlaySight(プレーサイト)社がある。ニュージャージ州に拠点を置くこの会社のシステムは、公式戦では使われていないものの、複数のテニスクラブや米国テニス協会の施設にも導入されている。そして実は、ジョコビッチはこのテクノロジーの利用者であるのみならず、投資家の一人でもあるのだ。

「投資に関する細かい話は、ちょっと控えておくけれど……」

 PlaySight社について問われると、ジョコビッチは慎重に前置きしたうえで、同社が開発したシステムそのものについて説明を始めた。

「PlaySightは非常に革新的であり、特にコーチングやトレーニングで最大限に効果を発揮するテクノロジーだ。コートに設置された5つのカメラが、ボールだけでなく選手の動きも全て捕らえ解析する。そして練習後には直ぐに、データや解析情報を見ることができるんだ。自分がどのように動き、どこにボールを打っていたかが一目で分かる。それらのデータを用いれば、どの部分を強化しどんな練習が必要かを割り出すこともできるだろう」

 自らが投資するシステムの優位性を雄弁に語った後にジョコビッチは「それにね……」と、幾分表情をゆるめて続けた。

「PlaySightのいいところは、コートで練習している様子をリアルタイムで見ることができる点なんだ。だから、もし自分の子どもがどこか遠くで練習していたとしても、親はカメラを通して見ることができる。遠くに居ても子どもがすぐそばに居るように感じられるのはすごくいいことだよね」

 そう言って浮かべる優しい笑顔は、少年時代にセルビアの親元を離れドイツにテニス留学をした自らの経験から来るものだろう。

 ちなみにカタールオープン決勝戦では、マリーは5回チャレンジして成功は1回、ジョコビッチは1度の試みが失敗している。どうやらデータを有効活用することと“チャレンジ”の得手不得手は、あまり関係がないようだ。


内田暁

6年間の編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスとして活動し始める。2008年頃からテニスを中心に取材。その他にも科学や、アニメ、漫画など幅広いジャンルで執筆する。著書に『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)、『中高生のスポーツハローワーク』(学研プラス)など。