文=六川亨
銅メダル獲得に「よかった。勝ってよかった」
日本サッカー協会(JFA)第9代会長で、現在は相談役の岡野俊一郎さんが2月2日、肺がんのため他界した。85歳だった。1月15日にはJリーグの創設に尽力した元Jリーグ専務理事の木之本興三さんが死去した。日本サッカー界は相次いでプロ化や2002年の日韓W杯招致に貢献した功労者を失うことになった。
岡野さんと言えば、オールドサッカーファンなら「三菱ダイヤモンドサッカー」の名解説を思い浮かべるだろう。サッカーだけでなく、その国と地域の歴史や文化も紹介するうんちくに富んだ解説は、いつかは「そこに行ってみたい」と思わせる説得力があった。
1964年の東京五輪と1968年のメキシコ五輪では日本代表のコーチを務め、68年には銅メダル獲得に貢献した。これは有名なエピソードだが、メキシコ五輪で岡野さんはコーチという役割だったが、すでにコーチとして平木隆三さんが登録されていたため、当時監督だった長沼健さんは岡野さんを選手として登録した。そのおかげで岡野さんは銅メダルを獲得することができたのだった。大会後に岡野さん本人が『サッカーマガジン』で戦評を書いたが、冒頭には「選手の一員として銅メダルをもらうために表彰台に上がった私の頭に、昨年のアジア予選の対ベトナム戦(五輪出場を決めた試合)の直後、選手とともに国立競技場のグラウンドを走った少年たちの姿がよぎった。“よかった。勝ってよかった”これが私の率直な感想であった」と喜びを書いていた。
トルシエ監督留任を決断「外国人コーチの孤立感を理解できた」
1987年には日本サッカー協会副会長に就任したものの、当時は日本オリンピック委員会(JOC)総務主事や理事などを歴任し、国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めるなど、サッカーというよりは日本のアマチュアスポーツ全般の発展に寄与した。そんな岡野さんがサッカー界に戻って来たのは、1995年にW杯組織委員会委員に就任してからだった。
IOCで培った幅広い人脈と堪能な語学力(英語とドイツ語)を生かし、W杯の招致に奔走。1996年に、FIFAのブラッター元事務局長から電話で日韓共催を打診された際には、公式文書をFIFAに求めたのも岡野さんの提案だった。2年後のフランスW杯に初出場を果たした日本は、4年後の自国開催に向けて本格的な準備に入る。当時の長沼健会長は「2期4年で会長は代わったほうがいい」という考え方だったため、98年のフランスW杯後に勇退を表明。後任には副会長でありJリーグのチェアマンでもあった川淵三郎氏の昇格が有力視されていた。
それというのも当時の岡野さんはIOCの委員を務めるなど多忙を極めていたからだ。しかし長沼さんの「一度は岡野を会長にしたい」というたっての希望から9代目の会長に就任。これが2002年日韓W杯で日本のベスト16進出につながったと言っても過言ではない。その理由は、エキセントリックなフランス人監督フィリップ・トルシエの理解者として擁護したからだ。もしも、川淵氏が会長だったなら、1999年のコパ・アメリカで惨敗した時点でトルシエ監督を解任していただろう。
2000年4月26日の韓国戦でトルシエ・ジャパンは0-1で敗れた。トルシエをサポートするために設置された強化推進本部の委員による投票では解任が4票、留任が3票という結果が出た。しかし岡野さんの最終決断は留任だった。その理由を自著の『雲を抜けて、太陽へ!』では「私自身はトルシエ氏の欠点を知っていたが、世界ユース選手権(現・U-20ワールドカップ)で日本を初めて準優勝に導いただけでなく、大会中に選手を孤児院に訪問させるなど、サッカー以外の体験をさせる指導方針を評価していた。また、オリンピック関係の会議でフランス人役員の絶対に譲らない気質を知っていたし、かつてのデットマール・クラマー来日当初に通訳を務めた経験上、外国人コーチの孤立感を理解できた」からだったと述べている。
岡野さんと初めて会ったときの印象をひと言でいうなら、「ジェントルマン」という言葉がぴったりと当てはまる。穏やかな口調、柔和な笑顔だが、口をついて出て来る言葉は理路整然。それは原稿をお願いしても変わらず、指定された文字数ぴったりで仕上げてくる。サッカー界はもちろんのこと、日本のスポーツ界全体を大所高所から冷静に判断した稀有な人物でもある。岡野さんのような人はもう二度と現れないだろう。岡野さんの訃報に接し、関係者の誰もがその死を惜しんだに違いない。私自身、もう一度「三菱ダイヤモンドサッカー」の名解説を聞きたかった。