#1「ジャマルの身に何が起き日本に来たのか、なぜ日本でプロを目指したいのか」

取材・文・写真=木之下潤 写真提供=ジャマル

当時のプロリーグの状況と国外避難の経緯

——自分の気持ちを押し殺して大学で勉強していたのは伝わってきました。国外でプレーする選択肢はなかったのですか?

ジャマル 海外でプレーするなんて頭にはありませんでした。そう思っても、シリアではバックアップしてくれる人もいませんから。海外へは大学の修士課程で留学することでは考えていました。でも、内戦が起こってしまってすべてが変わってしまったし、ダマスカス大学すら卒業することが叶わなくなってしまいました。

——前(日本でプロを目指すシリア難民の挑戦 #1)にサラリーの話が出ましたが、どの程度もらっていたのですか?

ジャマル 2部では、1万シリアポンドぐらいもらっていました。その頃、1ドル=45シリアポンド(当時、日本円で約85円)ぐらいです。当時、一般の人のサラリーが8000〜10000シリアポンド(当時、約1万5000円〜1万9000円)ほどだったので、平均的な金額です。サッカー選手はサラリーに加えて勝利給やゴール給などいろんな手当が付くので、平均よりは多くもらっていると思います。
1部ではフルタイムで活動できなかったから平均的なサラリーはわかりません。2011年に大学に入ってクラブと両立していましたが、内戦の状況がどんどん悪化して2012年にクラブ自体が解散してしまいました。
本来はクラブが他の地域に遠征に行って試合をするのですが、それが危険だったから遠征ができなかったし、トレーニングそのものも危ない状態が続いていました。そういう環境もあって、僕自身もゲームに参加しないようになっていきました。
シリアを出る直前はクラブの活動としてはなかったけれど、みんなで集まってサッカーをやったりはしていました。

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——いま仲間たちとは連絡を取り合っているんですか? もしくは取り合える状況ですか?

ジャマル みんなバラバラになって全員とは取っていませんが、何人かとは連絡を取っています。そのうち何人かは、現在もシリアにいます。
当時チーム数は1〜3部リーグまでで、35クラブぐらいありました。2013年にダマスカスでサッカーしているときの映像がフジテレビで放送されました。サッカーをしている後ろで爆撃音が聞こえる、他国の人にとってはありえない映像だったと思います。
あるときは、サッカーをしているグラウンドの隣で爆撃音がして、とりあえず中断してみんなで隠れ、逃げ帰ったこともありました。2013年は本当に内戦がひどくて、その年に僕はシリアから逃れました。

——どういう経緯で日本にやってきたんですか?

ジャマル はじめはエジプトから親戚がいるスウェーデンに行こうと思ったんですが、許可が降りませんでした。それで日本にはおじさんがいるから大使館でビザを申請したら、「ここでは申請できないからレバノンの日本大使館でやってください」と。だから、レバノンを経由して2013年10月に日本にやってきました。

——家族でエジプト(滞在は2013年2〜9月)に逃れたのでしょうか?

ジャマル 父はカタールでパン職人としてホテルで働いていたから、僕と母と妹の3人で逃れました。エジプトでの生活費は父が送ってくれました。レバノン(滞在は2013年9月の数週間)にいたとき、父とホテルとの契約が切れたから、父は合流するつもりだったのですが、シリアに戻されそうになりました。でも、シリアには戻れないから、レバノンで落ち合いました。
ただ、そこで僕たち3人は日本に渡航することができましたが、父は渡航できず一旦シリアに帰ることになりました。以来2015年3月に日本で難民認定が許可され、父を日本に呼び寄せるまで一緒に暮らせませんでした。

——ちなみにジャマルが日本で難民申請をしたのはいつですか?

ジャマル 2013年10月から難民認定をもらえる申請を始めました。本当は申請中から父が観光客として訪問できるように動いていましたが、結局認定が降りるまで待たなければなりませんでした。

——日本のどこで生活をしていましたか?

ジャマル おじさんが埼玉にいたから、そこで居候していました。その後は、3人でアパートを借りて生活し、いまも埼玉に住んでいます。

シリアのプロクラブで学んだサッカーとは?

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——シリア時代のポジションはどこだったんですか?

ジャマル 小さい頃からストライカー一筋です。自分もそこにこだわってやってきました。今は2つのアマチュアチームでプレーしているのですが、必ずしもFWのポジションに入れなくて、SBをやったり後ろのポジションもやったりしています。でも、やったことがないから、どうしたらいいのかがわからなくなります(笑)。

——そもそもサッカーのどこに魅力を感じたのでしょうか。

ジャマル サッカーをやっているときだけは、すべてのことが忘れられました。自分が抱えている問題などを忘れられるし、サッカーをやっているときは自分自身のことを強く感じられます。日本に来てからもサッカーをしている時間、ゴールした瞬間は最高です。
トレーニングをすればうまくなるし、自分よりもうまい選手がいれば、さらにトレーニングをしようと思う。それはサッカーだけでなく、他の分野でもそうです。

——クラブではどんなことを教わったのでしょうか?

ジャマル はじめは広いピッチに立ったとき、どのように動けばいいのかわかりませんでした。教わったことは、たとえば守備をするときにボールと相手を見ながら自陣に戻るとか、サイドに張ったときはラインを背中にして広い視野を作るとか、走り方とか、スタミナとか、サッカーに必要な様々なテクニックを学びました。もちろんパスを出したらどこにポジションを取る、どう走ればシュートが打てるなど戦術的なことも指導を受けました。

(写真提供=ジャマル)

——今、日本でサッカーを楽しんでいます。客観的にシリアサッカーとどう違うと思いますか?

ジャマル シリア人はより攻撃的で、体を使ってぶつかるようなプレーをします。日本の選手たちはスタミナがあって俊敏性があります。さらに、しっかりサポートしながらチーム全体でプレーしようという意識が高いように感じています。

——では、日本ではどうプレーしようと考えていますか?

ジャマル 自分の強みは走るのが速いことと、体が強いことです。だから、スペースを見つけてボールを蹴り出して走り、マークを置き去りにしてシュートに持ち込むことを常に考えています。サイドからの突破、また中にえぐってのシュートに自信があります。そのパターンで日本でもたくさんゴールを決めています。相手がスペースを与えてくれなくても、ペナルティエリア外でスペースがあれば必ずシュートを打ちますし、いつも狙っています。
でも、日本にも体の強い人がいるから、そういうマーカーを相手にしたときは、しっかりとパスをつなぎならサッカーをやります。ですが、ストライカーとしてプレーしてきたので、少しプレッシャーを感じます。もっとチームと良い関係を築いていかないといけないと感じています。

——やりづらさを感じたりしますか?

ジャマル 僕は感じていませんが、日本の選手たちが多少の居心地の悪さを感じているようです。なぜなら、時々怒られるからです。体で当たって行ったりすると文句を言われます。だから、よくケガをしてしまって……シリアでもそうでした。そんな僕のスタイルに、日本の選手たちも我慢できないことがあるのではないでしょうか。

次回は日本での生活とプロへの夢、そして内戦の原因についてジャマルが話す

木之下潤

1976年生まれ、福岡県出身。編集者兼ライター。福岡大学を卒業後、地元の出版社や編集プロダクションで幅広く雑誌や広告の制作に関わる。2007年に上京後、角川マガジンズ(現株式会社KADOKAWA)に入社し情報誌の編集を行う。2010年にフリーランスとして独立。現在、サッカーの分野では育成年代をテーマに『ジュニアサッカーを応援しよう!』『サカイク』などの媒体を中心に執筆。基本は「出版屋」としてあらゆる分野の書籍や雑誌、WEB媒体の企画から執筆まで制作全般にたずさわっている。