文=小林信也
6月28日のヤクルト対巨人戦。収容人員3万人の福島あづま球場の入場者数は1万1439人。ヤクルト主催試合とはいえ、巨人戦の観客が、その日開催されたプロ野球6試合で最も少なかった。このような出来事はこれまで想像しえなかったと、一部メディアが話題にし始めている。
その事実は少なからず、巨人に、そして巨人ファンに衝撃を与えただろう。
「まさかこのような日が来るとは思わなかった」という人もいるだろうが、こうした事態は数年前から予測できた。ごく自然の成り行きだと僕は感じている(今回の原稿では、野球少年であった実感を込めて、あえて「僕」と書かせてもらう)。
かつてはたしかに存在した巨人軍の“誇り”
「いま、誰が巨人を応援しているのか?」
その質問に答えられる人が、どれほどいるだろう?
「なぜ楽天を応援しているのか?」
その質問になら、楽天ファンでなくてもいくつかの答えがすぐ浮かぶだろう。
「東北の出身だから」「2013年の日本シリーズ最終戦。マー君の『あとひとつ』に感動したから」など。実際、あの試合で新たに楽天ファンになった人も少なくないだろう。対戦相手の巨人ファンでさえ、あの日は楽天を応援してしまった、という知人がいる。僕もそのひとりだったかもしれない。理屈抜きに、感動があった。心が動かされた。ただ優勝の喜びではない、大震災の被害、その後の厳しい生活を共有し、それぞれが目の前の人生と戦い続ける想いと絆が、楽天イーグルスの戦いと重なっていた。
いま、巨人の勝利は、勝利以上のなんらかの思いと通じているだろうか?
V9時代の巨人には、“誇り”があった。新しい野球を追求し、体現し、日本のプロ野球をたくましく変革している誇りだ。斬新で、魅力的で、そして強かった。
一番柴田が出塁し、積極的に次の塁を狙う。盗塁が難しいバッテリーなら、二番土井がバントや進塁打でチャンスを広げる。「内角球も右足を引いてライト方向に打つ」土井の職人芸を野球少年は好んで真似した。そして、三番王、四番長嶋が走者を本塁に迎え入れる。
守りも徹底していた。何より伝説的なのは、「8時半の男」宮田征典投手だ。川上哲治監督が宮田をリリーフ専門で起用し、1965年には先発2試合を含む登板69試合で20勝5敗の成績を残している。まだセーブの規定がない時代。投球回数164と3分の2の数字が示すとおり、ロングリリーフも多かった。
V9巨人といえば、必ず挙がるのが『ドジャースの戦法』。ベロビーチのドジャースタウンで春のキャンプを行い、牧野ヘッドコーチを中心にドジャースの戦法を学んで実践し、従来の日本野球になかった戦法や技術を持ち込んだ。
長打を打たれた場合の中継プレーは、いまでは高校野球でも、いや少年野球でも当たり前の基本だが、これを体系的に日本に導入したのは当時の巨人だと言われている。
「三塁コーチの牧野は、サインを出す相手捕手の筋肉の動きでサインを見破っていた」
「だから巨人の森捕手は夏でも必ず長袖のアンダーシャツを着てサインを出した」など、野球少年が「へーっ!」と声を上げ、草野球遊びのとき、自分で解説しながら真似をするアイテムに限りがなかった。そんな楽しさも野球への情熱をかきたてたし、巨人への思いを益々高めた。いま、そんな要素が巨人にどれだけあるだろう?
巨人が40年以上も犯し続けている“間違い”とは?
©共同通信ある時期から、巨人は大きな間違いを犯し続けている。
「巨人はなぜ、巨人でありえたのか?」
理由はすでに書いたとおりだ。しかし、巨人の球団首脳たちは、「強いことが巨人の最大のアイデンティティーだ」と勘違いした。
「強ければ、ファンは納得する」「だから、巨人は常勝球団でなくてはならない」
そんな愚かな思い込みに、いまも縛られている。
手元に『4522敗の記憶』(双葉社)という本がある。サブタイトルに『ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史』とある。横浜ファンの作家・村瀬秀信さんが、歴代の選手、監督・コーチ、球団関係者らにインタビューしてまとめた労作だ。「(出版の時点で)12球団最多の4522敗を喫し、5年連続最下位に沈み続ける横浜をファンはなぜ応援し続けるのか」
読み進めるうち、横浜を応援し続けるファンの悔しさ、忸怩たる思いが切なくなると同時に、それなのに、横浜という「愛する球団」を持つ彼らに羨ましさも感じた。巨人のファンにはない心のドラマがそこにはあった。
この本が「売れた」という事実にも勇気を与えられた。発売わずか三ヵ月で六刷を記録している。最近は、ベイスターズの球団経営の取り組みが入場者数の着実の増加を導いたと報道される機会が多い。その原点にこうした熱いファンの思いがあること、球団の施策もビジネス的なノウハウだけでなく、ファンの思いを前提に置いていることを巨人の球団首脳は理解しているだろうか?
巨人ファンは、「強いから巨人のファンである」という推定は、何割かは正しいが、すべてではない。僕たちは、『V9の終焉』も経験した。他球団のファンから見れば傲慢な落胆にすぎないかもしれないが、巨人ファンにとってそれはただならぬ落胆だった。『長嶋の引退』とも重なり、激しい喪失感に襲われた人は少なくないだろう。さらに『長嶋ジャイアンツ最下位』という悲惨な事実とも向き合った。「四番サード長嶋」がいない巨人の未来がどうなるか、漠然と恐れていたものがあまりにも鮮やかに現実となった。それでも僕らは、「巨人のファンをやめよう」などと露ほども思わなかった。
思えばそのとき、巨人の球団首脳たちが「現実と向き合えなかった」のではないだろうか。ファンは懸命に向き合っていたのに、球団が安易な方法ばかりを求めた。その結果が、6月28日の1万1439人につながったというのは、あまりに「長すぎる言い訳」のようだが、あながち間違った指摘ではないはずだ。V9巨人が残した遺産、ファンの思いはこれだけ長い間、40年以上にもわたって「持ち」続けた。しかしもう限界を迎えたのだ。
ナベツネの完全退陣、脱読売こそ巨人再生の第一歩
最初のきっかけは『江川事件』だった。1978年11月21日、ドラフト制度の盲点を突いて、江川卓を獲得した。長嶋巨人が最下位の後2連覇を飾ったものの、また2位に甘んじたシーズンオフだった。「巨人ファンだ」と言うのが恥ずかしいと思った最初の出来事だった。それでもしばらくは巨人を応援し続けていた。
長嶋が監督だったからだ。
そして1980年10月21日、長嶋監督が解任された。当初は辞任と言われたが、実際には解任だとわかって、ますます巨人への不信が高まった。
もはや巨人ファンであり続ける理由はないように思われた。
僕自身、それ以後、急速に巨人への思いは消沈していく。それでも巨人を嫌いになりきれなかった。球団のやり方は嫌いでも、あの輝きは消えないからだ。生まれ故郷を偽れないように、巨人のファンであったことを偽れない思いに呪縛され、巨人への愛着が脈々と心の奥に流れていた。それは人間の愚かなセンチメンタル。巨人の球団首脳はそのセンチメンタルにつけこんで、今日まで球団を私物化したという意味で二重に罪が深い。
巨人ファンである呪縛から逃れるのに長い時間がかかった。けれどいまはその思いはようやく断ち切れている。なぜなら、応援する理由がないからだ。
巨人凋落の要因のひとつは「勝てない監督を変える」という、間違った慣習を許し続けたことにもある。企業なら、トップ(社長)が責任を取るのが当然だ。ところが、巨人は常に現場の長を槍玉にあげ、社長や実質的な経営者(オーナーや陰のオーナー)は偉そうに君臨し続けた。いま退陣すべきはまず陰のオーナーとして依然力を行使しているらしいナベツネさんだ。ナベツネの院政を完全に断つことは巨人だけでなく、野球界の再生のために必須の命題だ。
「巨人を返せ!」「野球を返せ!」と、声を大にして叫びたい。
巨人が生まれ変わるための最も前向きな提案は、巨人というプロ野球クラブを、読売グループから脱却させ、完全独立を果たすこと。野球ファンの手に取り戻すことだ。
巨人を愛する(かつて愛した)起業家たちはいくらでもいるだろう。その中から、巨人復活を託せる経営者たちをみんなで選ぶ。挑戦的で魅力的な野球ビジョンを提示し、勝つか負けるかは時の運、巨人の野球はこれだという誇りを明確にする。
本当は「東京を離れること」も選択肢のひとつだと僕は考えている。
地方移転が極端な意見だとすれば、新宿から西側のエリアと、東側に広がるエリアでふたつの球団がファンを二分してもよいのではないか。
巨人は長く「全国区」のチームとして存在してきた。Jリーグの影響もあって、プロ野球も地域に根付いた経営が主流になってきた。広島、東北楽天、北海道日本ハムの例を見ても、この方向性は日本の野球ファンに歓迎されている。その意味で巨人のファンは見えなくなっている。「全国区」という漠然とした人気の足下は脆い。東京なら東京、東京西地区なら東京西という明確な地盤が必要な世相になっているのではないか。
まず必要なのは、巨人が地元を特定すると同時に、巨人ファンが共感できる明快な経営方針の示せる経営者を選ぶこと。そのビジョンを実現する監督、コーチ、選手をそろえることのできるGMの選任。密室でこれを決めては未来はない。そして、人々を魅了し、野球ファンでない人、野球から心が離れている人をも「野球で笑顔にする」だけの魅力を持った選手、試合の再生だ。