1人のプレミアリーグファンとして、ジェイ・ボスロイドの名前は知っていた。サッカーとは関係ない話題で紙面を賑わし「イングランド代表経験者、と1試合のみの出場で自ら名乗るお騒がせ男」とタブロイド紙に皮肉られるほどになってしまったイングランド期待のストライカー。そんな苦しんでいた「元天才」が、日本でのフットボールを謳歌することになるとは。コンサドーレ札幌に加入することが決まった彼の過去を紐解き、極東の島国で見つけた幸せで予想出来ない運命を語ろう。

輝かしい未来を夢見た、アーセナルユース時代

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ボスロイドが頭角を現したのは、名門アーセナルFCのユースでプレーしていた頃。歴代最強とも称された当時のユースチームにはアシュリー・コール(アーセナルで活躍後、チェルシーやイングランド代表でも主力として活躍したSB)やジャーメイン・ペナント(リバプールでもプレーしたサイドアタッカー)、ジェレミー・アリアディエール(プレミアでは活躍出来なかったが、母国フランスのロリアンで開花したFW)が所属しており、未来を夢見る輝かしい若者たちで溢れていた。怖いもの知らずの若武者達は、FAユースカップにて躍動。2年連続の戴冠を成し遂げた黄金世代の前線に君臨したのが、ジェイ・ボスロイドだった。

身体能力自慢が揃うイングランドでも闘えるだけの強靭なフィジカルに加え、柔らかなテクニック。ボールを持てば、同世代のDFでは近づくことですら難しい。本人が「アーセナル時代に、コーチによって教え込まれたアーセナル流」と語る柔らかいボールタッチを武器に、アーセナルを愛する少年は着実に夢の舞台へと近付いていた。

「デニス・ベルカンプやティエリ・アンリが一緒に練習している環境で、彼等の様になりたいと思うことは普通だし、実際になれると信じていた」

彼が育った家庭は比較的裕福だったが、住んでいたのは貧困地域だった。共にボールを蹴っていた多くの友人が牢獄で時を過ごし、数人は既に命を失ったという。そんな環境で育った彼にとって、プレミアリーグというチャンスは何よりも得難いものだった。6歳で初めて父親と訪れたホームスタジアムは燃え上がる夢の様に赤く染まり、彼の成長を待っていた。

失意の始まり

しかし、掴みかけていた夢は未熟な彼自身によって終わりを告げる。U-19の試合でチームを率いたDon Howeによって交代されたボスロイドは激昂し、ユニフォームを指揮官の前で投げ捨ててしまったのだ。

アーセン・ヴェンゲルが「ユースで起こった事件は、ユースの責任者に一任してあった」と後に述べたように、トップチームの指揮官である彼にはボスロイドを救う権限はなかった。フランス人指揮官が率いるトップチームのメンバーに加われないまま、若きストライカーはアーセナルを去る事になる。弱冠17歳の時だった。事態を重く見たユース責任者は、期待株であったにも関わらず100万ポンドという安価でボスロイドを売却。「ボスロイドがどれほどに素晴らしい才能を持った若者でも、アーセナルは彼の行動を絶対に許さない」という厳しいメッセージに見送られ、彼は最愛のクラブを去った。

この事件を彼は「最大の後悔だった」と述べている。「あの時の仲間達と一緒で、俺は未熟で傲慢だった」という言葉が、重たい。

「どれほど重要なものを失ったかということを、本当に理解したのは少したってからだった。父親には罵倒され、何発か殴られた。一度の間違いで、僕は全てを失ってしまった。アーセナルを愛して育ち、アーセナルでプレーすることを夢見ていたのに」

再起の助けとなった、イタリアでの経験。

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行き着いた地は、コヴェントリー。流れ着いた地で、彼はプレーに集中することが出来ずにいた。自暴自棄になって「アーセン・ヴェンゲルは、ユースの選手に興味がない」とコメントしたことすらあった。彼の転機となったのは、クラブの財政悪化だ。チームが多くの主力選手を売却したことで、21歳で前線の軸に据えられることになったボスロイドは、チーム得点王となる12ゴールを記録する。

 本人が語る転機が、イタリア移籍だった。コヴェントリーでの好調に目を付けたセリエAのペルージャに移籍した彼は、悪童時代を知らない人も多い異国で再スタートを切ることとなった。この経験が、彼が海外移籍に前向きな理由の1つだろう。

「イタリアでの経験は、俺に進むべき道を思い出させてくれた。イタリアでは、フットボールは宗教だ。彼らは生き、食べ、眠り、フットボールをする」

ペルージャでのゴール数は物足りなかったものの、彼はイタリアへの移籍を機にゆっくりと変わり始めていた。2003-2004シーズンには試合の大半に出場し、前線で奮闘。戦術の国で厳しいプレッシャーを浴びたことで、プレースタイルにも徐々に変化が見られるようになっていった。イタリアでは、観客からの差別的なチャントを浴びることもあったという。

チームメイトとなった元イタリア代表DFファビオ・グロッソを筆頭とした様々な出会い、全く違う環境。精神は研ぎ澄まされ、悪童だった少年は大人へと変わりつつあった。現在イングランドのストーク・シティでプレーするFWボージャン・クルキッチが「フットボーラーとして、人間として成長することには、タイトルの数は関係ない。異なる環境での経験こそが、成長する上で最も重要だ」と語ったように。怪物は静かに、飛躍の時を待っていた。

英国復帰、そして覚醒。

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ローンという形でイングランドの古豪ブラックバーン・ローバーズに復帰したボスロイドだったが、そこでも再び「悪癖」が足を引っ張ることになる。ノーウィッチとの試合で相手を蹴飛ばしてしまい、一発退場。そのままスターティングメンバーの座を掴むことは出来ず、ペルージャに返還されることになる。次の移籍先となったのは、チャールトン・アスレティックス。強烈なFKで度胆を抜くこともあったものの、18試合で2ゴール。流れの中でゴールに絡むことが出来ず、天才はチームに馴染めないまま苦しんでいく。

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再び大器の片鱗を見せ始めたのは、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC時代。狼をチームのマスコットにするチームで、獣はゴールへの飢えを剥き出しにし始める。ウルヴズ時代に沈めたゴールの中でも、最も有名なゴールはこれだろう。相手DFを競り合いであっさりと外すと、そのまま中距離から強烈なミドルシュート。一般的な大型ストライカーであればシュートを選ぶことすら出来ないゾーンからの一撃は、印象的なものだった。

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そして、ついに覚醒の時が訪れる。2008年に移籍したカーディフ・シティで、ボスロイドのポテンシャルが開花する。指揮官Dave Jonesの献身的なサポートと、ボスロイドを中心としたチーム作りが功を奏し、3年間で45ゴール。指揮官は「我々は、ボスロイドに徹底して休む時間を与えなかった。ボスロイドは何度となく顔を歪めて文句を言ったが、我々は絶対に彼から逃げ出さないと伝え続けた。絶対にこちらが折れないとなれば、全ては彼次第になる。彼が本気を出すことが出来る最高のステージを用意するのが、指揮官の仕事だ」と語った。

迷いなく突き刺す中距離砲と、イングランド2部で磨き上げられた強靭なフィジカル。チームのために身体を張り、守備にも献身的に参加するハードワークまで兼ね備えたストライカーは、一気に注目の的になる。カーディフ時代の活躍が、イングランド代表への道を開くことにもなった。たった一試合とはいえ、イングランドを代表して戦ったことについて、本人は「最高の誇りだ」とコメントしている。

アーセン・ヴェンゲルはFAカップでのカーディフ戦の前に「ジェイ・ボスロイドは私にとって、最大の後悔だ。自ら道を閉ざしてしまったが、それでも立ち上がってきた。そのことを我々は喜んでいるし、誇りにも思っている。左利きで大型、完璧なテクニックを持ち合わせた素晴らしいFWだ」と述べた。アーセン・ヴェンゲルは試合後にボスロイドに「良くここまでやってきた。これからも進み続けろ」と声をかけたという。

再びの挫折。そして、極東へ。

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カーディフで「ファンのアイドル」になったボスロイドは、プレミアリーグへの挑戦を決める。移籍先はクイーンズ・パーク・レンジャース。9歳でアーセナルに移籍する前に所属していた「始まりのクラブ」は、選手の入れ替わりが激しいチームとなっていた。

傭兵集団に加わったボスロイドだったが、やりたいプレーをさせてもらえずに苛立ち、チームとの連携にも苦しむ。残酷なことに、プレミアリーグは回り道を続けた天才を容赦なく跳ね返した。世界中から集められたDFと対峙しては、彼ですら「フィジカルもテクニックも中途半端なセンターフォワード」でしかなかった。

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トップレベルでの挑戦は終わり、彼は意外な道を選ぶ。「イングランド人はシャイ過ぎて、冒険の準備が出来ていない。海外に行って、未来のイングランド代表に貢献したい」と語る旅人は、再びグレートブリテン島を去ることになる。

プレミア2部に相当するチャンピオンシップでのプレーを続けると思われていたボスロイドが、突如タイのムアントン・ユナイテッド移籍を発表したのは2014年だった。中国でプレーしていたアネルカのアドバイスもあり、彼は新天地であるアジアでの挑戦を決める。しかし、タイリーグでは馴染み切れずに16試合で6ゴール。勿論全く活躍出来なかった訳ではないが、2年間の契約期間を満了することはなかった。大きな決断として移籍したタイリーグに、たった1年で別れを告げることになる。

ジュビロ磐田との出会い、別れ。

「タイのフットボールにおける大きな問題は、プロとしての態度だった。日本ではタイとは比べられないほどに、選手全員が真剣にフットボールに向き合っている」

当時J2に所属していたジュビロ磐田にとっては、大きなギャンブルだったに違いない。能力はアジアレベルでは飛び抜けているとはいえ、問題児の烙印を押されたFWを獲得するという選択。しかし、その賭けは良い方向に転ぶことになる。カーディフ時代のようにプレーに集中出来る環境を与えられたことで、ボスロイドは再び全盛期のプレーを取り戻した。英国では屈強なCBに苦しめられることも多かったが、空中戦はJリーグにおいて別格。柔軟な足下から繰り出される技術によって、細かいパス回しにも柔軟に対応する。

「ジュビロ磐田が与えてくれた環境は、選手を練習に100%集中させるものだ。ここでは清掃員からクラブスタッフまで、皆が家族のように僕を迎えてくれる」

 愛されるクラブを求めて旅を続けたストライカーは、遠く日本で理想郷へと辿り着いたように見えた。しかし、途中交代時にペットボトルを地面に叩きつけた規律違反をキッカケに名波監督との関係が悪化し、54試合で34ゴールを沈めたストライカーはチームを去っていった。

「家族と共に過ごす時間を増やすために、タイに移籍することを決意した」というコメントからも分かるように絆を大切にする彼にとって、常にチームメイトやサポーターの信頼を感じられる環境こそが最も選手として活躍出来る環境なのだろう。精神が安定せずにチャンスを投げ出した少年は、山あり谷ありの人生を経て大人へと成長し、遅れてやってきた全盛期を謳歌する場所を探している。

カーディフのサポーターは、「日本の2部に流れ着いた彼のフットボール人生は、どう考えても大失敗だ。時間を無駄にしてしまった。カーディフに残っていれば、もっと素晴らしいサッカー人生があったかもしれなかったのに」とボスロイドを批判した。それでも彼はジュビロ磐田をJ1昇格に導き、イングランド人選手としてはギャリー・リネカー以来となるJ1でのゴールを記録。道がどこに続いているかは、誰にも解らない。

未熟な失敗を繰り返しても諦めずに進み続けたからこそ、ボスロイドの今があるのだろう。「未だに少年の様に、楽しんでプレーしている」と語るストライカーは、札幌の地へ。数奇な運命の巡り合わせは、ジェイ・ボスロイドが探し続ける「居場所」を与えてくれるのだろうか。ウェールズの首都カーディフのように、広大な自然に囲まれた北の大地に「飢えた獣」が解き放たれる。

「居残り練習」を捨てよ。グアルディオラの「練習論」。

「居残り練習」。筆者もプレイヤー時代は、毎日遅くまで残って練習するのが好きだった。選手が通常のトレーニングだけでは満足せず、自主的に居残り練習をしている姿はメディアでも好意的に扱われる傾向にあり、指導者やファンは努力と熱意を高く評価することだろう。しかし、本当に「居残り練習」は必要なものなのだろうか。世界屈指の指導者ペップ・グアルディオラのエピソードから、その問いの答えを探していこう。

VICTORY ALL SPORTS NEWS
結城康平

著者プロフィール 結城康平

宮崎県生まれ、静岡県育ち。スコットランドで大学院を卒業後、各媒体に記事を寄稿する20代男子。違った角度から切り取り、 異なった分野を繋ぐことで、新たな視点を生み出したい。月刊フットボリスタで「Tactical Frontier」が連載中。