狩野恵輔について

名前 狩野恵輔
生年月日 1982年12月17日
日本
出身 群馬県渋川市
プロフィール 小学校3年で野球を始める。前橋工では1年秋からレギュラーとなり、2年秋、3年春に関東大会に出場。平成12年ドラフト3位で阪神に入団。181センチ、78キロ。右投右打

上州の掛布が阪神タイガース入り!

狩野恵輔が野球を始めたのは小学3年生の時。当時のポジションは捕手ではなく、投手でした。そのまま群馬県の前橋工業高校へと進学し、野球部でも投手として当初起用されていましたが、2年生の秋に新チームのキャプテンを任されると、捕手がいなかったこともあり捕手コンバートを敢行。それまでと逆の立場になることに苦戦しますが、チームをまとめ上げていきました。

高校ラストイヤーとなる00年、高校3年の狩野は群馬県大会で大活躍。甲子園大会出場をかけたこの大会で狩野は大会新記録となる4本塁打をかっ飛ばし、チームを決勝戦へと導きます。

あと1つ勝てば夢の甲子園…というところで迎えた相手は名門・桐生第一。一場靖弘を擁するチームを相手に狩野は奮闘しますが、無情にもバットは空を切るばかり。最後の打者として狩野は迎え撃ちますが、残念ながら敗退。全国大会とは無縁のまま高校球界を去ることになります。

しかし、そんな狩野を評価していたのは阪神タイガース。パンチ力のある打撃に注目した阪神は狩野をドラフト3位で指名。狩野もこの指名を受けて入団を決意します。

ちなみに狩野は当時、その打力と風貌から「上州の掛布雅之」というニックネームで知られていました。くしくも掛布が在籍していた阪神に入団するというのも強い縁を感じさせます。

外野コンバートを避け、捕手一本で勝負

阪神タイガースに入団した狩野恵輔。この年の阪神のドラフト指名選手を見ると、4位の赤星憲広、6位の沖原佳典、7位の藤本敦士らどちらかというと開始名に即戦力球が集まり、上位指名はどちらかというと大化け狙いという理由での獲得に見えました。狩野もその理論にのっとる形で開幕二軍スタート。最初は身体づくりを理由に二軍暮らしが続きました。

高校時代から捕手となった狩野は捕手としては珍しい俊足の持ち主。さらにパンチ力のある打撃が魅力の選手でもあったために捕手としてではなく外野手としての起用も考えられ、入団2年目の02年までは外野手としての練習も積んでいました。しかし、狩野自身は捕手にこだわりましたが、それが仇になった感も否めませんでした。

というのも、当時の阪神には矢野燿大というリーグを代表する捕手がレギュラーを張っていた時代。経験が何より重要とされるポジションに高校卒の選手がベテラン相手に勝てるわけがなく、狩野の一軍入りを遠ざける理由になりました。

狩野の一軍初出場となったのはプロ入り4年目の04年。それもわずか2試合のみ。優勝した05年に至ってはわずか2試合。さらに06年は1試合のみの出場にとどまりました。

しかし、打撃成績自体は順調でこの06年には二軍で首位打者になる活躍。さらにオフに狩野のもとに第二子が生まれました。プロ野球選手としてこれ以上燻っていられないという理由から一念発起し、広島のジムで金本知憲とともに自主トレをこなし、さらに最大のライバルである矢野燿大に弟子入りする形で合同自主トレにも参加します。さらに背番号もプロ入り時にもらった「63」から「99」に変更。もう後がないという思いが狩野を支えていました。

懸命な思いが叶ったのか、07年の狩野は野口寿浩、浅井良を押しのけてプロ入り初となる開幕一軍メンバー入りを果たします。4月20日の巨人戦に代打で起用されると、プロ入り初安打を放ちます。このヒットがサヨナラタイムリーとなり、見事に初ヒット初タイムリー、初サヨナラ打、そして初のお立ち台を経験します。

この年の阪神は右打者の不振が目立ち、その中で活躍した狩野はいつしか右の代打の切り札的な役目をゲット。最終的に狩野はこの年、54試合に出場。打率2割7分4厘、3本塁打という素晴らしい成績を残し、翌年以降のレギュラー定着を予感させました。

レギュラー定着を期待されるも、城島健司に阻まれる

一軍定着が期待された狩野恵輔ですが、翌08年はひじの手術を開幕前に受けたのが災いし、出遅れてしまい12試合の出場にとどまりました。しかし、故障なく迎えた09年、長年一軍の捕手の座を守っていた矢野燿大が右ひじの負傷で離脱することに。狩野にとってはまたとないチャンスが巡ってきます。

狩野はこの年、プロ入り初となる開幕スタメンの座を勝ち取ると、正捕手として矢野燿大と併用され、自己最多となる127試合に出場。リーグトップの敬遠数、そして捕手としては珍しい二桁盗塁を達成。ドラフト時に同年に指名された赤星憲広がこの年を最後に現役を引退したことで足の速い選手が少ないチームになり、翌10年の狩野のチャンスは広がると誰もが考えましたが…狩野にとってはまたも試練がやってきました。それは城島健司の入団でした。

矢野燿大が衰えを見せたところで、メジャー帰りの城島を獲得するというのはチーム補強の点では間違っていませんが、狩野にとっては大問題。あくまで捕手一本で出場を望んだ狩野は必然的に2番手捕手に降格となり、出場機会は激減。わずか32試合の出場にとどまります。しかも、金本知憲のバックアップ要因としての起用がほとんどで、捕手としての起用はわずか1試合のみ。さらにこの年のオフには腰痛の原因になっていた椎間板ヘルニアの手術を行いました。

これの影響もあり、11年の出場は10試合のみ、さらに12年オフには育成選手枠へと降格。13年の夏場に再び選手登録されますが、この年の出場はわずか6。またも出番を取られてしまいます。

一軍再昇格。代打の神様として奮闘!

もう後がない14年シーズン、狩野恵輔は開幕から二軍暮らしで、夏場になっても声がかかりませんでした。いよいよ戦力外通告を受けるかと思われた矢先の8月、新井良太の戦線離脱でチャンスをつかむと、これを逃すまいと奮起。さらにポストシーズンでは腰を痛めた新井貴浩に替わってベンチ入り。日本シリーズではソフトバンク先発の武田翔太から代打初安打を記録するなど、一定の活躍を見せました。

翌15年、狩野は衰えの見えだした関本賢太郎に替わり、代打の切り札としての存在を守りいつしか阪神の伝統でもある「代打の神様」の称号を得るようになります。勝負強い狩野の打撃はチームに欠かせないものとなり、阪神の重要な選手になっていきました。

さらに16年には一軍にフルシーズン帯同。出場試合数こそ66試合と半分以下ですが、3本塁打、17打点と要所要所で記録して、チームの信頼をも獲得。ついにシーズンオフには選手会長にまで任命されるほど、ファンにも選手たちにも愛される存在になりました。


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