青春ドラマに感動しているだけでいいのか?

高校野球、とりわけ“甲子園”は「1度負けたら終わり」、その刹那的な仕組みが大会にいっそうの感傷を与えている。世代を超えて、また野球経験の有無を越えて、国民が共有する“青春ドラマ”が生み出される。100回を記念するこの夏もまた、数々のドラマが生まれた。

だが、この感傷を私たちは今後も受け入れ、同じような“青春ドラマ”を今後も生産し続けていいのだろうか? 私は、自ら高校野球に打ち込み、3年夏までの高校生活を野球中心に過ごした経験から、あえて疑問を投げかけたい。
中学を卒業し、高校受験に合格し、子どもの頃からずっと憧れていた高校野球に身を投じて2カ月後には、早くもそこが自分の夢見ていた世界と違うと感じ始めた。そのときは、なぜ自分が苦しいのか、よく理解できなかった。ただ、練習場にいることに苦しさを感じ、一刻も早くグラウンドから逃げ出したかった。

その理由が、練習の厳しさより、「心の自由が許されない息苦しさ」だったことを冷静に言語化できるようになったのは、それから30年以上も経ってからだった。多くの行動が、監督の指示と判断の下で行われる。自分の中に生まれる素朴なひらめきや発想は、まず打ち消され、上からの指示に従うことが基本とされる。

投手だった私は、打者との駆け引きが何より好きだった。投手と打者の勝負には、球速や体格・体力を超えた、目に見えない優劣があった。決して球速のある投手ではなかったが、緩急の使い分け、打ち気を外す投球法で打者を手玉に取る面白さは言葉には表せない。時に、自分の想像を超える打力の持ち主と対峙し、打たれるはずがないと自信を持って投じたボールを楽々と弾き返される。それは、打者を打ち取った以上の感激だった。

私を野球に駆り立てていたのは、そのような、心の体験であり、同じ野球に情熱を燃やす仲間との魂の交流だった。ところが、監督や世間は、あまりそうした「目に見えない勝負」には関心を寄せず、また寛容でもなかった。

たった一度の負けで野球を奪われる高校球児

高校野球の公式戦はトーナメント形式で行われる。一度負けたら終わり。選手起用にしても、戦術の選択にしても、自ずと危険を冒さない選択が主流になる。個々の選手のひらめきやトキメキなどは無視され、排除され、監督を中心とする勝つための定石や確率論が支配することになる。そうなると、かつての私のように、ひらめきやトキメキが好きで野球を志す少年の無邪気な感情や感覚は踏み潰されることになる。大半の高校野球のグラウンドに“楽しみ”は存在しない。それは、野球であって、野球でないに等しい。その息苦しさ、痛恨は、センチメンタリズム推奨の世相の中で、数十年もの間、蹂躙され続けてきた。

決定的な体験は、高校3年の夏の地方大会だった。「負けたら終わり」はわかっていたが、いざ自分がその立場に立たされて初めて実感した。
敗戦、引退。高校野球終了。
それは、高校野球からの「永久追放」だった。

戻りたい、戻れない。昨日までは練習をさぼれば断罪されていたのが、もはや選手としてグラウンドに立つことすら許されない。歓迎されない存在になる。なぜ、高校生でありながら、高校のグラウンドで野球ができないのか? もう二度と、高校野球の試合に出られないのか?

なぜ、そんなルールが存在するのか? 高校野球を運営する側の大人たちは、そんな高校生の傷ついた気持ちを一切思いやろうとしない。高校野球からの引退は、おそらく9割近い野球少年にとって、真剣な競技としての野球からの決別を意味する。なぜ日本の高校生は、たった一度負けただけで、野球を奪われなければならないのか。

夏の大会の後、高校生活はまだ9カ月も残っている。それなのに、強制的に野球場から追い出され、後輩の指導を手伝う以外の方法で野球に取り組む場を一切奪われる。それまで野球一色の生活を強いられながら、今度は一転、野球ゼロの生活に飛び込む。心のケアなど、一切ない。

そして世間は、負けたら終わりの高校野球を「刹那のドラマ」と囃し立て、他人事である前提で感動したり泣いたり、高校生自身の気持ちや日常などまったく配慮されていない。あれから44年が経つ。この間一度も、3年生に夏の大会以降も試合出場の機会を与えるべきではないか、といった提言をほとんど聞いたことがない。

「甲子園の原点」とは?40年以上前に著されたある書籍

高校野球を原点に戻したい、高校生たちの素直な気持ちをグラウンドに反映したい。高校生それぞれの発達段階に適した大会形式を新たに実現したい、それによって野球人気を触発し、野球人口の増加につなげたい、そんな切実な思いから私は「甲子園は100回で終わり」と提言している。

「甲子園」を、高校野球の絶対的存在と位置づけることで発生している弊害に目を向けるべき時期に来ている。遅すぎるくらいだ。水戸黄門の印籠のように高野連や監督たちが「甲子園」を持ち出すことで、高校野球の支配体制は維持され、理不尽で時代遅れの論理が見直される機会を失う。

まだ高校野球への複雑な思いが癒えない大学時代、偶然手にした一冊の本、『甲子園の心を求めて』から受けた感銘が頭の片隅に息づいている。昭和50(1975)年6月に発行され、4年後には新版と続編も出版された。著者は、都立東大和高監督(当時)の佐藤道輔さん(故人)。教師になって初めて赴任した都立大島高の野球部員や父母たちとの熱い挑戦の日々が綴られている。
 佐藤道輔さんは、この本の〈はじめに〉でこう書いている。 

『私は、あの華やかな舞台の甲子園だけでなく、もっと本当の意味での甲子園像が、ほかにあるような気がしてならないのである。全国に二六〇〇を越える高校野球のチームの多くは、甲子園をはるかに遠くにして敗れ去っていく。しかし地方予選の一回戦に敗れていったチームの中にも真の甲子園の心を求めたチームがあるはずではないのだろうか。』

都立東大和は出版の3年後、昭和53(1978)年春の東京都大会に準優勝、夏の西東京大会でも決勝に進み、“都立の星”と呼ばれるようになった。昭和60年(1985)にも決勝に進出、日大三高に5対2で敗れ、またも甲子園に届かなかった。

この本の底に流れる思いと実践には、高校野球の原点がある。出版から43年の歳月が流れているが、実はいまも佐藤道輔さんの提言を受け止め、試行錯誤を重ねている監督たちが全国にいる。

「甲子園の心」を求めて高校野球に取り組む監督たち

宮本秀樹さん(現都立片倉高監督)は『甲子園の心を求めて』に影響を受けて高校の教員そして監督を志した。野津田高から思いがけず都立東大和に異動し、直接道輔さんの薫陶を受けた。1年目の夏の大会後、「連盟の仕事が忙しくてグランドに出られない日が多くなった。宮本君が監督をやってくれ」とあっさり言われ、後継者となった。

「当時の高校野球は、1年生がグランド整備や球拾いをするのが当たり前。練習試合に出るのも上級生やレギュラークラスが中心でした。東大和は違いました。3年生全員がグランド整備をし、同じ練習をして甲子園を目指していました」

いまでは当たり前になった――全員でグランド整備をし、1日に3、4試合も組んで部員の大半が練習試合に出場できるようにする――といった習慣が根付いた背景に、道輔さんの提案と実践があった。
上級生がグランドで練習した後、下級生がグランド整備して上級生が帰ってしまう、または横でそれを見ながら話している光景を道輔さんは「高校野球の最も醜い姿」と言ったという。

ある選手が、やめたいと言って来たとき、自分がいくら話しても気持ちが変わらなかったのに、道輔さんと話した選手がすぐグランドに戻ってきた。後で「どんな話をしたのですか」と聞くと、「甘えるなと言っただけだよ」と言われた。なぜ道輔さんには選手の気持ちがわかるのか。宮本さんがお酒の席で聞くと道輔さんは笑いながら言った。
「真剣にプレーしている選手の横顔をじっと見てみろ。横顔にうそはない。じっと見ているとわかるような気がするんだよ」
宮本さんが監督を務める都立片倉は今夏、國學院久我山を破り、日大三高を7回2死まで6対3とリードした。だがそこで逆転満塁本塁打を喫し、敗れた。             

東東京から初めて都立校が甲子園に出場したのは、平成11(1999)年の都立城東高。監督の有馬信夫さんも、名著を読んでその背中を追ったひとりだ。

甲子園に出場を果たした後、話を聞くと、有馬監督の誇りは甲子園出場以上に、次の高校に異動する前の最後の3年間、約100人いた部員が「ひとりもやめなかった」ことだという。有馬監督の指導は厳しい。練習量も多いし、叱咤の仕方も半端ではない。だが、当時の選手のひとりがこう教えてくれた。
「やめたいとか、やめるといった会話は野球部の中で聞いたこともなかった。自分も一度も考えたことがありませんでした」
明確な目標があり、やりがいがあったからだろう。

都立強豪のひとつ都立昭和高の野口哲男部長は中学2年のとき『甲子園の心を求めて』を読んだ。父親から渡されて読み、すぐに「高校は東大和」に決めた。道輔さんの教えは本に書かれていたとおりだった。部室は1年生が使う。3年生たちは倉庫の片隅を使う。グランド整備も3年生たちが率先してやる。全員野球、レギュラーだけが偉いんじゃないという道輔さんの考えを控え選手だった野口さんも身をもって体験した。

甲子園を目指すチームがかみしめる「野球より大切なもの」

おかやま山陽高校の堤尚彦監督は、中学3年のとき『甲子園の心を求めて』に出合った。感銘を受け、「都立東大和に入りたい」と、著者の佐藤道輔さんに手紙を書いた。当時は学区制で越境入学が認められなかったが、「君の学区内では、都立千歳は大きなグラウンドもある」と書かれた返信に導かれ、千歳高に入学。3年夏、主将・4番打者として大会に臨んだが初戦で敗れた。高校卒業後、クリーニング工場で1年働いた後、東北福祉大に進学。卒業後は世界での野球の普及に情熱を注ぎ、ジンバブエやガーナで野球の指導にあたり、その後、縁あっておかやま山陽高校の監督になった。

昨夏、おかやま山陽は激戦区岡山を勝ち抜き、初めて甲子園出場を果たした。今春はセンバツに出場し、夏も優勝候補の一角に挙げられた。が、思いがけない出来事が襲った。
豪雨、水害。4番の選手のほか、何人かの選手の家が水をかぶった。大会直前だが、部員全員で土砂撤去の手伝いに行った。この夏、おかやま山陽は3回戦で玉島商に5対1で敗れた。だが、野球より大切なものがある。当然のことをチーム全員でかみしめた夏だった。

『甲子園の心を求めて』に影響を受けた監督たちが、甲子園という目標を直視しながらも、試合の勝ち負けに執着せず、野球を通じて何を学ぶのか、何を表現するのかを模索し続けている。本来の高校野球が目指すべき本質がそこに浮かび上がって見える。

甲子園という幻想にしがみつき、小さな商売や権益に執着しているのはごく一部の主催者たちではないのだろうか。彼らの利権のために、高校生を犠牲にしてよいわけがない。       
主催者もファンも、「夏の甲子園にこだわり続ける。だが、甲子園の心を持ち続ける限り、会場が「甲子園」でなくても、開催時期が「真夏」でなくても、高校野球の素晴らしさは受け継がれるのではないか。むしろ、夏の甲子園に執着し続ける弊害のほうが大きくなっている。

いま佐藤道輔さんがお元気だったら、どんな未来を提言するだろうか。そこに想いを馳せることが、新しい高校野球を創り上げる上で重要な手がかりになる。


小林信也

1956年生まれ。作家・スポーツライター。人間の物語を中心に、新しいスポーツの未来を提唱し創造し続ける。雑誌ポパイ、ナンバーのスタッフを経て独立。選手やトレーナーのサポート、イベント・プロデュース、スポーツ用具の開発等を行い、実践的にスポーツ改革に一石を投じ続ける。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍。主な著書に『野球の真髄 なぜこのゲームに魅せられるのか』『長島茂雄語録』『越後の雪だるま ヨネックス創業者・米山稔物語』『YOSHIKI 蒼い血の微笑』『カツラ-の秘密》など多数。