お茶の水セルクリニック 寺尾友宏院長(左)、東京大学大学院医学系研究科 整形外科准教授 齋藤琢先生(右)

自覚症状に頼ると、手遅れのケースも

昨今はフィジカルトレーニングに関する本も多く出版され、一般のスポーツ競技者の知識レベルも上がっているという。スポーツの裾野が広がる一方、ケアに関する知識にも格差が生じている。

「スポーツに関係する膝の怪我には、プレー中に発生し、救急対応を必要とするものと、細かいダメージが蓄積され、コンディションの低下を引き起こすオーバーユース(使いすぎ)の2種類があります。プレー中の怪我はダメージが大きい場合が多いため、すぐに病院を受診する方が大半だと思いますが、オーバーユースの場合は自己判断で運動を続けてしまい、いつの間にか手遅れになるケースも少なくありません」

トップアスリートが長期間の戦線離脱を強いられる前十字靱帯断裂も、膝の怪我の一つ。その症状の深刻さに反して、意外にも痛みが少ない場合もあるという。

「アスリートが膝を抑えてうずくまるのは、同時に膝の半月板を損傷する場合が多いためです。靱帯には痛みを感じる神経がないため、それ自体が断裂や損傷を起こしても痛みがありません。内出血が治まれば、少しふんばりが効かなくなった、という軽い自覚症状だけで、特に治療の必要性を感じない方が多いのですが、放っておけばやがて必ず軟骨がすり減って変形関節症を引き起こします」

骨折の場合ですら、自覚症状がないこともある。大抵の場合は、骨が折れた際に骨膜を傷つけ内出血を引き起こすため、見た目が判断材料になるのだが、内出血を伴わない折れ方もある。そのまま放置した結果、骨がずれた状態で新しい骨が形成され、痛みを引き起こす。

40代で痛みを感じて病院を受診すると、その原因が10代、20代のスポーツ中の怪我だったというケースも少なくない。スポーツ中の怪我に自己判断は禁物だ。

動かしたほうがいい痛みもある

もちろん、激しい動きのなかで起きた怪我でなければ、そこまで重症化しないケースがほとんどだという。じわじわという痛み方の場合、数日様子を見て、痛みが引くようであればまず安心していい。しかし、常に安静が最適な治療法だとは限らない。

「慢性的に続く痛みや動かしにくさは、関節の固さが原因の場合があります。あえて動かすことで軟骨の修復が早まることが報告されています。運動中に多い捻挫も、アイシングで痛みを抑えながら軽く動かすことで治りが早くなります。基本的に、関節は使えば使うほどいいと言われているので、スクワットやレッグプレスといったトレーニングを低負荷で繰り返すことも効果的です」

昨今のトレーニングブームは、膝の強化には基本的には好影響だという寺尾医師。しかし注意すべきは、運動のフォームだ。

「基本的にはランニングや筋トレなど、どんな運動でも膝の保護につながると言われています。しかし、疲れてくるとフォームが崩れ、膝への負荷が必要以上にかかってしまっている人も見受けられます。特にランニングは、臀部の筋肉を使えずに腿の筋肉だけで走っている人が多く、長時間続けると膝への負担が大きくなります。膝は全身のバランスを受ける部位なので、体幹のブレ、お尻の筋肉など全身をまんべんなく鍛えることが大切。競技のテクニックを身につけるよりも、運動の強度に耐えられる体づくりから始めてください」

治療の選択肢は広がっている

どんなに気をつけていても、避けられない怪我もある。もし重症を負ってしまったら、どんな治療法の選択肢が私たちにはあるのだろうか。

「どこまでを治療のゴールとするのか、という目標設定によって選ぶものが変わります。痛みの軽減だけであれば、ヒアルロン酸の注射や湿布が一般的です。それでも症状が改善しない場合は、一足飛びに手術治療というのが今までの選択肢でした。しかし、今は幹細胞治療という方法がスポーツ現場にも徐々に浸透しつつあります」

幹細胞治療とは、骨・軟骨・腱・神経・皮膚などわたしたちの体をつくるさまざまな細胞に変化する能力【多分化能】を持つ「幹細胞」を患者の体から取り出して培養し、体内の損傷がある部位に注入する治療法だ。培養された幹細胞は、損傷部分を探し当ててくっつき、炎症を抑えると共に傷を修復する働きがあると言われている。
参照:お茶の水セルクリニック「幹細胞とは」https://ochacell.com/treatment-joint/

ヨーロッパではすでに、怪我の予防策としてもリーガ・エスパニョーラなど一部トップリーグで細胞治療が導入されている。オフシーズン中に選手の脂肪細胞を採取し、幹細胞へ培養して保存しておく。選手は培養された細胞を関節に投与し、ダメージが小さいうちに修復を行うことで大怪我を防ぐ仕組みだ。2018年にはレアル・マドリーのGKナバスが膝関節に細胞治療を施したことが報じられた。
参考:https://www.excite.co.jp/news/article/Gekisaka_259179-259179-fl/

2019年には元F1ドライバーのミハエル・シューマッハ氏が、細胞治療を受けるために仏パリの医療施設に入院していることが、フランスの大衆紙パリジャン(Le Parisien)で報じられた。
参考:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190910-00000007-jij_afp-moto

「前十字靭帯は完全に切れてしまうと手術しか治療法がありませんが、少しでもつながっていれば幹細胞治療によって治る可能性があります。また、膝の関節のクッションとなる半月板は、すり減っていくことで痛みを生みますが、ここにも幹細胞を投与することで、すり減った半月板を修復できます。痛みを感じたら手遅れになる前に、早いタイミングでの受診をおすすめします」

トップスポーツの現場では未だ治療例は少ないものの、一般向けには「痛みを軽減する」、「日常生活を不自由なく送る」といった目的で、細胞治療は近年徐々に浸透してきている。しかし、どの治療法も即効性があるものではなく、細胞治療は投与後3ヶ月ほどのスパンで経過を観察していくという。スポーツを長く、途切れずに楽しみ続けるには、日頃の運動習慣と正しいフォームの習得という基礎の徹底が肝要だ。


小田菜南子