▽朝食
豊ノ島の言葉に衝撃を受けたのが2019年名古屋場所だった。東前頭14枚目で2勝目を挙げた後の支度部屋。その日は生活のリズムが良かったことを勝因に挙げ、理由の一つとして、朝稽古の前に軽めに食べ物を摂取することを明かしたのだ。本人いわく「朝起きてすぐに食事。体を動かしてまた食事をして昼寝する。快適だった」
力士の食事といえば昔から、朝稽古後と夕食の1日2度が一般的だ。起床後、何も食べずに稽古に臨み、カロリーを存分に消費。その後で栄養バランスの良いちゃんこ鍋などをたくさん食べれば、体を大きくすることもできる。また稽古の前に食べ物を胃に入れると、ぶつかり稽古を含め激しい鍛錬をこなした場合におう吐してしまう怖れもある。
豊ノ島の場合、その約1年前から稽古の前に茶碗半分くらいの白米とおかずなどを口にするようになったという。「がっつり食べるわけではない。少し物を胃に入れる方が、体はしっかり起きるようになった」と説明した。ある程度、自分のペースで稽古ができるベテランならではの策。これまでの角界の常識にとらわれないスタイルを見つけ、力士寿命も延びた。「1日2食というのは確かに太りやすい。でも、ただ大きくなるのは意味がない気がする」と話すように、向上心を持って日頃からいろいろと考えを巡らせた産物だった。
▽礎
幕内上位の常連だった。琴欧洲や把瑠都といった身長2㍍前後の巨漢を相手にしても真っ向勝負を挑み、倒していった。礎にあったのは運動神経の良さだった。初土俵を踏んだのは2002年初場所。新弟子検査の方式が今とは異なる時代だ。当時は身長173㌢、体重75㌔以上という体格基準に満たない力士志望者は、167㌢、67㌔以上で運動能力テストを伴う第2検査を受けられることになっていた。ボール投げや短距離走、反復横跳びなどのメニュー。豊ノ島はこの検査に合格してデビューした。体力テストに立ち会ってきた親方の一人が後年「豊ノ島の数値を基本にしてしまうと、どうしても他は見劣りしてしまう」と明かしたほどだった。体格基準をすべて167㌢、67㌔以上に緩和したことに伴い、第2検査は2012年に廃止。豊ノ島は同検査合格者として初の関取になるなど、先駆者として道を切り開いた。
個性は取り口にも表れていた。まず特徴的だったのが両腕をクロスさせながらの立ち合い。得意のもろ差しになるための作戦だった。しかも、小兵は頭から当たって相手を起こして攻めるのが得策とされるのに対し、豊ノ島は胸から当たっていた。自らより身長の高い相手に胸からいけば、普通は腰が伸びて不利な体勢になりがちだが、豊ノ島は柔らかさや俊敏さを生かして前傾を保ち、うまく相手の懐に入った。横綱として自身初の金星を豊ノ島に配給した白鵬は「だからやりづらい。考えられない。本当に相撲がうまかった」と称賛した。
▽大先輩
豊ノ島が入門し、今では部屋付き親方として所属しているのが時津風部屋だ。創設者はあの双葉山。不滅の69連勝を記録し、〝不世出〟と形容される大横綱だ。双葉山は幼少期に負ったけがが原因で右目の視力がほとんどなかった。それを公にすることなく人一倍稽古に励み、史上最強ともいえる力士になった。双葉山は生前、こう記していた。「目で見ず、体で見、体で見ず、心で見るというぐあいで、私の相撲の技術を熟させてくれた。つまり逆説的な表現をすれば、右眼が悪かったから、私の相撲が強くなれたということになりそうである」(「私の履歴書」)と。
片方の目が不自由だったことにより、相手の動きを体で感じ、気を感じ取って勝負の勘どころを押さえられるようになったと捉えられる。他の力士とは異なる次元で相撲を追究。ハンディキャップと思われることを自身の力に変えてしまう強さがあった。今でも時津風部屋の玄関には「双葉山相撲道場」の看板が掲げられている。通称〝道場〟と呼ばれる稽古場で育った豊ノ島は「自分も小さい人と取るのは嫌。自分と対戦する相手も、そう思っているんだと考えながらやっている」と背の低さを長所にする極意を口にしていた。
卓越したトーク力、頭の回転の速さによってバラエティー番組にもよく呼ばれてきた。人気があるだけに引退相撲も盛況が予想されるが、新型コロナウイルスにより現時点で断髪式の予定を発表している親方衆も日程変更を検討しており、豊ノ島の場合も影響が心配される。ただ、今後は日本相撲協会員としての仕事に励む一方、持ち前の伝える力を駆使し、積み上げてきた豊かな経験や着想を力士に教え、相撲中継の解説などでファンに広く披露していけそうなことは間違いない。体重無差別の大相撲において〝小よく大を制す〟は醍醐味の一つ。平均的な日本人男性と同じくらいの身長で、部屋の大先輩から志向を受け継ぎながらそれを体現してきた。令和の新時代にあって、小柄な力士や子どもたちに希望を与えていく姿は変わらない。