振り返ると、強い意志で突き進んできた。愛知県豊田市出身の羽根田は、父親の影響で9歳から競技を始めた。愛知・杜若高を卒業後の2006年、より良い練習環境を求めて本場スロバキアに渡って武者修行。異国の地で地道にトレーニングに励み、2008年の北京大会から五輪に出場を続けるなど日本の第一人者に成長した。10代から単身渡欧して心技体を研鑽した姿は、まさに世界を相手に戦う〝日本の侍〟。2012年ロンドン五輪で7位となり、2016年リオデジャネイロ五輪では3位に入って悲願のメダル獲得を達成した。

冒頭に挙げた「五輪書」の言葉にあるように、新型コロナで大変な時期でも、ベストを尽くす姿勢を貫いた。外出自粛がさけばれていた期間。自宅にいながらできる練習風景を何度もSNSで紹介した。

カヌーをこぐ感覚を忘れないために、水を張った浴槽でパドルを操った。庭先では、中身の詰まった植木鉢を両手に持って筋肉を鍛えたり、ブロックを背中に乗せて腕立て伏せをしたりした。はたまた柄の長いハンマーを手にして地面に繰り返したたきつけた。これはプロボクシングで世界5階級制覇を果たし、50戦全勝を誇るスーパースターのフロイド・メイウェザー氏(米国)らも同様のトレーニングをしていたことがあり、全身を使う効果的な運動。カヌーのスラロームは激しい水流の中で実施されるだけに、尋常ではない身体的な強さも要求される。羽根田には、剣の道を追究した宮本武蔵のストイックさを彷彿させる面がある。

白鵬の足

「五輪書」は、晩年の武蔵が江戸時代初期に熊本県の山で記した。同書によると、13歳の時を皮切りに、佐々木小次郎を倒したことで有名な〝巌流島の決闘〟などを含めて60余りの勝負を経験し無敗。さまざまな流派の猛者を相手に、生きるか死ぬかの局面で勝利を収めてきた。現在のスポーツのように、整えられた場所ではない。土地の形状や風向きなどあらゆるシチュエーションを想定しないと、自分が殺されてしまうという設定。それだけに、太刀の持ち方や立ち位置と太陽の関係、1人で大勢を相手にする際の戦法など内容は微に入り細に入り、説得力に満ちている。

それゆえに、羽根田の心にある一節以外でも、神髄が点在している。例えば、足の運び方への言及。「足づかひは、ことによりて大小遅速はありとも、常にあゆむがごとし。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ、きらふ足なり」。つまり、スピードはその時々によって違いはあるが、勝負の場においても普通に歩くように足を使うことが大事で、飛んだり浮き上がったり、固着するような運びは良くないと説いている。

この作法は大相撲の横綱白鵬の心掛けと一致する。歴代最多となる優勝44回の要因の一つは、相手の攻撃力を吸収する柔らかな体で、両足が土台だ。白鵬はかつて「普段から足の親指を意識して歩いています。相撲につながっていますからね」と説明していた。しっかり足の裏が土俵を捉えることで、安定した下半身につながる。同じ宮城野部屋のある弟弟子は、花相撲での横綱土俵入り前の光景として「支度部屋から花道まで横綱はすり足をして移動していました」と証言。長年、最高位を維持する裏側には、日頃からの高い意識がある。

自在

カヌーとヨットの違いはあるものの、羽根田と同じように水の世界で活躍する海洋冒険家、白石康次郎氏もかつて「五輪書」を愛読していることを明かしていた。海という刻々と変わる自然環境の中で生き抜いていく。そんな命懸けの状況における平常心の重要性など、修羅場で必要な心の持ち方などを学び取ったという。

自ら道を切り開いて世界に羽ばたいた羽根田。人間的な魅力もあり、自動車メーカーのポルシェやファッションブランドのシャネルなど多岐にわたるスポンサーを得て、カヌーを広く世間にPRすることに成功した。既に東京五輪代表に決定。4度目の大舞台を集大成と位置づけ「さらに鍛錬を積み、来年の五輪に全力で臨みたい」と意欲を示している。ちなみに、日本ではオリンピックを「五輪」と表現される。これは1930年代、新聞記者だった川本信正氏が言い換えた呼称。世界五大陸を五つの輪で表現したオリンピック旗と「五輪書」から着想を得たといい、武蔵には間接的ながらオリンピックと不思議な縁がある。

同書にはこうもある。「鍛練をもつて惣躰(そうたい)自由(やわらか)なれば、身にても人にかち、又此道に馴れたる心なれば、心をもつても人に勝ち、此所に至りては、いかにとして人にまくる道あらんや」。精進をして体を自在に動かすことができ、精神的修養で一つの境地に達すれば、人に負ける要素などないのではないかという考察だ。武蔵の剣をパドルに変え、新型コロナウイルス禍でも心身を鍛えた羽根田が、信念を持って1年後へ歩んでいる。


高村収

1973年生まれ、山口県出身。1996年から共同通信のスポーツ記者として、大相撲やゴルフ、五輪競技などを中心に取材。2015年にデスクとなり、より幅広くスポーツ報道に従事