小学一年生から野球を始め、硬式野球のボーイズリーグで活躍。そのころ、藤浪晋太郎(大阪桐蔭→阪神タイガース)、田村龍弘(光星学院・現八戸学院光星→千葉ロッテマリーンズ)、北條史也(八戸学院光星→阪神タイガース)らと対戦した経験がある。
松原は当時のことを『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)でこう振り返っている。
「田村なんて、小学生のときからバケモノで、いまと同じような体格で堂々とプレイしていました。『こういうヤツがプロに行くんやなあ』と思っていました。僕が目標にしていたのは甲子園に出ること」
甲子園出場を目指して仙台育英に進んだが、レギュラーをつかむことはできなかった。二年生の秋、足の速さを評価されて二塁手として試合出場の機会を得たが、ここで大きな試練にぶち当たった。思うように送球できない「イップス」が原因だった。
「キャッチボールのときに、たまたますっぽ抜けたことがあって、先輩の鼻に当たってしまいました。それから、相手の後ろに人がいる状態でうまく投げられなくなって……どんどん送球が悪くなり、ずっと治らなくて」
松原のいた仙台育英は2012年夏の宮城大会で優勝し、甲子園で2勝を挙げたが、ベンチ入りメンバーに名前はなかった。
主力として活躍しながら甲子園出場がかなわなかったプロ野球選手は少なくないが、三年生のときにアルプススタンドから仲間を応援した経験を持つ人は多くない。チームメイトが聖地で戦う姿を、松原は純粋に応援できたと言う。
「みんなが甲子園に立ってプレイするのを見て、素直にうれしかった。自分がユニフォームを着れなくて悔しいという思いはありませんでした。みんなが甲子園で、強い相手と戦うのを見て、『すごいな』と思いながら、応援していました」
高校卒業後、首都大学リーグ2部に属する明星大学に進んだ。一年春からスターティングラインナップに名を連ね、外野手に転向してからはリーグを代表する強打者になった(二年春から5シーズン連続でベストナイン)が、彼の存在に注目する人は少なかった。
■プロ入りから4年目
2016年ドラフト会議で育成選手5巡目指名を受けて入団したジャイアンツで2018年7月に支配下選手登録を勝ち取った。
春季キャンプで一軍メンバーに選ばれもしたが、シーズンが始まると二軍に落ちることを繰り返した。2019年も一軍に上がることができなかった。
松原は言う。
「二軍に落ちたあとにオープン戦でまた一軍で呼んでもらったとき、『打てなかったらヤバい。打てなかったらどうしよう』という気持ちになってしまいました。自分にはメンタルの強さが足りないと思います」
誰だって、いい結果が欲しい。しかし、焦れば焦るほど、力めば力むほど、ヒットは打てなくなってしまう。
「自分にはまだ本当の自信がないから、そういう気持ちになるんだと思います。しっかり練習して自信をつけるしかない。練習を積んでいい結果を手繰り寄せれば、一軍に呼ばれたときにアグレッシブにプレイできるはずです」
身長173センチ、体重72キロの松原は、プロ野球選手の中では小柄な部類に入る。セールスポイントは、確実性のあるバッティングとスピード。高いレベルで揉まれていくうちに自分の長所を見失う選手は多いが、松原はプロに入ってからバッティング以外の武器を手に入れた。
「プロに入ってから、コーチにスタートの仕方も、リードの取り方も、スライディングも、すべて教えてもらいました。走塁のコツが少しわかるようになってから、走ること、走塁の魅力にハマっていきました」
これまで磨かれなかった才能が、少しずつ花開こうとしている。
7月25日に一軍に昇格すると、その日のスワローズ戦で代打でプロ初安打となる二塁打を放った。その後も途中出場で結果を残し続け、8月18日にプロ初の先発出場。その後も先発で起用され、4試合連続でヒットを放った。8月25日の試合後の時点で打率は3割4分を超えている。
ヒットやフォアボールで塁に出て、バッテリーを揺さぶり、チームを勢いに乗せる。クリーンアップの前にチャンスをつくるのが松原の役割だ。
「僕はホームランバッターではないので、ヒット+盗塁で勝負します」
高校時代は補欠、大学時代は無名、ドラフトで育成指名というキャリアを持つ松原は、甲子園や大学、社会人で活躍したエリート揃いのジャイアンツで異彩を放っている。
いぶし銀の働きをする職人になるのか、それとも、スターたちに並ぶ存在になるのか。プロ4年目の25歳がいま、大きく羽ばたこうとしている。