近藤は今、12月7日に行われるプロ野球12球団合同トライアウトに向けて日々、黙々と練習を続けている。

「僕ずっとある意味、1人で自主トレしてるんですよ。他人(ひと)と絡んでないんです。ただ、やることはもう全部やってるんで。(1人なので)キャッチボールはしてないですけど、(外野から)バックネットに大遠投して、そのまんまマウンドからバックネットに向かってピッチングもしてます。いざ相手(打者)がいた時にどれぐらいの球になるかは分かんないですけど、例年のオフシーズンもずっとこんな感じなんで」

 唯一、例年と違うこと。それは来年、どこのユニフォームを着るか決まっていないことだ。

「できればというか、基本的にはNPB(の球団)でやっていきたいのはあります。行きたい球団とか、行きたくない球団っていうのは正直ないですね。もともとドラフトの時も、もちろん僕が選べる立場ではなかったですけど、どこに行きたいっていうのもなかったんで」

球界再編、戦力外を経て

 近藤がドラフト指名を受けたのは、今から19年前。日大三高のエースとして2001年夏の甲子園大会を制し、今はなき大阪近鉄バファローズから7巡目で指名されてプロの道に進んだ。2年目の2003年に初めて一軍の試合で登板。翌2004年には、プロ初勝利を挙げた。

 この2004年こそが、プロ野球が再編問題で大きく揺れ、結果的に近鉄のラストシーズンとなった年である。近藤が本拠地の大阪ドーム(現京セラドーム大阪)で初めて一軍のマウンドに上がったのは、9月20日。近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併がオーナー会議で承認されたことに選手会が反発し、12球団で足並みをそろえて“アクション”を起こした直後のことだった。

「その何日か前(9月18、19日)がストライキだったんですよ、12球団の。僕は札幌ドーム(18日の北海道日本ハムファイターズ戦)で先発の予定だったんですけど、ストライキになったんで1回流れて……。『先発なくなったな。残念だったな』って言われて本拠地に戻ったら、岩隈(久志)さんがその日(20日)の登板を(股関節痛で)回避することになって。それで岩隈さんの代わりに、僕が先発したんです」

 2日間に及んだプロ野球史上初のストライキが明けて、最初の試合。しかも、相手は合併問題の当事者であるオリックス。だが当時プロ3年目、21歳の近藤には特別な感慨はなかったという。

「『球団はなくなるけど、どっかでできるだろう』っていうのだけはあって。正直、何を根拠にそんなに強気というか、勘違いできてたのか分かんないですけど、『球団なくなるけど、どこかしらでできるよな』っていう会話を(他の選手と)してるんですよ。今考えると、危機感はなかったですね。独身だし、若かったし、寮生だし、家を買ったわけでもないし」

 味方の大量援護もあり、5回2失点でプロ初勝利。「勝ってうれしいというか、やっぱり1勝目ってみんな意識すると思うんですよ。やっぱり初勝利っていうところでは、特別だったかもしれないですね」と振り返るが、近藤にとってこれが近鉄のユニフォームで手にした、最初で最後の白星になる。

 近鉄とオリックスの合併により「オリックス・バファローズ」が誕生し、近鉄は“消滅”。所属していた選手は分配ドラフトでオリックスと新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスに振り分けられ、近藤はオリックスの一員となった。

 新生・オリックスでは2008年に10勝、2009年も9勝と先発として活躍するが、2011年以降は度重なる故障に泣かされる。一度は育成選手となり、すぐに支配下に返り咲くも「僕はあの年で一度死んでるんで」という2016年──。

「交流戦(6月11日の横浜DeNAベイスターズ戦)で(先発として)投げた時にボコボコにやられたんですけど、終わってすぐに呼ばれて『このままだと構想外だから』って言われたんです。それで、僕の可能性を考えて『中継ぎの練習でもしてみるか』って言ってくれたのもあるんですよ。それまで先発をやってましたけど、1イニング全力だったらどんな球になるか分かんないし『やってみるか?』って。そしたら(7月のトレードで)ヤクルトさんからチャンスをいただけたんで」

 オリックスでは「かじった」程度の中継ぎというポジションで、近藤は鮮やかによみがえる。それまで故障に泣かされ続けたのがウソのように、2017年から3年連続で50試合以上に登板。「高卒(でプロ入りして)から、スタイルっていうところでは全然変わってない」という、躍動感あふれるフォームからの勢いのあるストレートを軸に、切れのいいスライダー、フォークを交える投球で、2018年には35歳にして74試合登板の球団タイ記録を樹立。7勝4敗2セーブ35ホールド、防御率3.64の成績を残し、前述のとおり最優秀中継ぎのタイトルを獲得した。

最後の近鉄投手

 その間、気付けば近鉄でプレーした現役選手も、ごくわずかになっていた。今シーズン開幕時点で3人。近藤のほかには、1年後輩でオリックス、ヤクルトでも同僚となった坂口智隆。そして「ある意味、岩隈さんがいて、岩隈さんが(登板)回避したからこその1勝目だった」という、近藤のプロ初勝利のきっかけをつくった岩隈(読売ジャイアンツ)である。

 今年10月、その岩隈が現役引退を発表。来年もヤクルトでプレーする坂口は外野手であり、近藤は現時点では近鉄のユニフォームを着たことのある「最後の現役投手」ということになる。

「そこを意識するかっていうと、(周囲から)言われるから意識するだけであって……。ただ、あらためて見直してみると、いろんな意味で『背負ってる感』はありますね。正直、(元)近鉄だから僕が粘るというわけでもないですけど、近鉄がなければ僕はプロ野球選手になってないかもしれないですし。でも(当時の)近鉄ファンの人は、たぶん僕のことを知らないんじゃないかなって思うんですよ。本当に若いというか、どんなヤツか分からないぐらいのレベルでプレーしてたんで」

 近藤は現在37歳、坂口は36歳。いずれは現役の「元近鉄戦士」もゼロになるだろう。ただし、仮にそうなったとしても近鉄の血脈が途絶えるわけではないという。

「近鉄がなくなってからも、近鉄に所属してた人っていうのは12球団の中に点々といるんですよ。だから近鉄としての名前は表にはないですけど、たとえばヤクルトには坂口がいて、(同じ近鉄OBの)阿部健太がスカウトをやってるんで、近鉄としての『血』は流れてるんですよ。僕がピッチャーとして最後だとしても、現役では坂口が最後になったとしても、いずれそういう(現役ゼロの)タイミングになった時でも、12球団では生き延びてるんです」

 それでもやはり、現役のプレーヤーとして近鉄の残り火をともし続けてほしいと願うファンは、少なくないはずだ。

「選択肢は1つしか今はないんで。現役を続ける方向でやって、ある程度の時期が来た時にやめるというか自分であきらめて、何か生活できる方法を探さないといけないんですけど、今の段階では絶対に現役(続行の道)を探る時期だと思ってます」

 これまで決めかねていたトライアウトへの参加も、「100%の力が出せればアピールになるし、(オフの)この時期に出せなくても(来年の)開幕には100%になる自信はあります。(NPBの編成で)そういうふうに見てくれる方もいると思うので」と、ここに来て決断した。

 もう一度、NPBのマウンドで投げる──。その姿を見たいと思っているのは、もちろんかつての近鉄ファンだけではない。オリックスファンだろうが、ヤクルトファンだろうが、近藤一樹という投手を知る者ならば皆、心からそう願っているはずだ。
(了)


菊田康彦

1966年、静岡県生まれ。地方公務員、英会話講師などを経てメジャーリーグ日本語公式サイトの編集に携わった後、ライターとして独立。雑誌、ウェブなどさまざまな媒体に寄稿し、2004~08年は「スカパー!MLBライブ」、2016〜17年は「スポナビライブMLB」でコメンテイターも務めた。プロ野球は2010年から東京ヤクルトスワローズを取材。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』、編集協力に『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』などがある。