「死んでいるのか、生きているのか分からなかった」。当時23歳だった2012年、銃弾を浴びた友人を守るため、地面に体を投げ出した際、近くに落ちた砲弾に右脚を吹き飛ばされた。友人は助かったが、その代償は大きかった。治療と支援を求めて、戦時下のシリアから隣国のトルコへ避難。だが、そこで受け取った義足は100メートルも歩けば、ねじが外れるような代物だった。十分な量の抗生物質は処方されず、傷口は化膿するばかり。「生き残るための唯一の選択肢だった」と、14年に小型ボートに乗り込み、ギリシャのサモス島へ。命からがらたどり着くと、すぐさま難民キャンプに収容され、6カ月の滞在許可が下りた。その後、治療を受けるために首都アテネへ。支援者からの協力もあったが、「食べ物がなく、木の葉っぱや公園の草を食べてしのぐ生活を16日間続けた」という。

 壮絶な体験を乗り越えて、ついには専門医からの治療を受け、トイレ清掃員となって自立した生活を送れるまでになった。その時、わき出てきた思いが「スポーツをしたい」という感情だった。アジア王者にも輝いたことがある父親の影響で5歳から水泳を始めた。五輪を夢見て練習に明け暮れていたが、11年から始まった母国の内戦で競技を続けることを断念した。右脚の膝から下も失った。だが、スポーツがしたい衝動は抑えきれなかった。自身を迎え入れてくれるスポーツクラブを回ると、ある車いすバスケットボールチームが参加を認めてくれた。競泳の練習も20以上のクラブに断られながら許可を取り付けた。スポーツを楽しめる生活を得たことで暮らしは大きく変わった。フセイン選手はスポーツの力について「最初ギリシャ語はしゃべれなかった。異なる文化にも苦しんだ。でもそれら全てがスポーツを通じて解決した。スポーツが私を社会に溶け込ませてくれた」と語る。

抱き続けてきた思い。「私が経験した絶望をほかの障害者に味わってほしくない」

 15年には難民認定され、正式にギリシャへの移住が認められると、出場したギリシャのパラ大会でメダルを獲得。一気に注目を集めることになった。ギリシャのパラリンピック委員会から、16年リオデジャネイロ五輪の聖火リレーの走者としての依頼を受け、アテネの難民キャンプを通って聖火を運んだ。すると、国際パラリンピック委員会(IPC)は、リオ大会で初めて結成する「難民選手団」にフセイン選手とイラン生まれで米国在住の円盤投げ選手、シャハラッド・ナサジプール選手の2人を選出すると発表。パラリンピック旗の下、開会式では先頭で堂々と入場行進し「長年の夢が現実になるなんて信じられない」と声を震わせた。

 「私が経験した絶望をほかの障害者に味わってほしくない」。そんな思いを抱き続けてきたフセイン選手は20年に障害がある難民をスポーツを通じて支援する「アスロス財団」を立ち上げた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ロシアによるウクライナ侵攻の影響で世界の難民や難民申請者、国内避難民などの総数は1億人を超えた。そのうち1200万人以上に何らかの障害があるという。しかし、生活で必要不可欠な車いすや義足が満足に得られているのはごくわずか。財団が中心となって、十分な支援とともにリハビリができる環境づくり、語学学校の設立などを目標に掲げている。今回の来日はその取り組みへの理解を求めるためだ。日本を選んだ理由は、昨夏の東京パラリンピックに難民選手団の一員として競泳に出場した際、その関心度の高さが印象的だったから。

「日本国民は難民障害者に対して非常に大きな愛情を示してくれた。アスロスの活動する上で成功する土台があると思った」

 6月12~27日まで滞在し、クラウドファンディング支援者向けのオンラインイベントを実施。また、難民選手団のホストタウンだった東京都文京区の区立窪町小学校も訪問した。新型コロナウイルス禍のパラリンピックでは実現しなかった児童たちとの直接対面。大会前にはホストタウン事業の一環として、文京区の小学生らから難民選手団へ激励のメッセージなどが入った約1万個の青い紙飛行機が贈られており、フセイン選手は特別授業として、自身の体験や現在の取り組みについて語り「本当に幸せ。お返しをしたかった。次世代の方にお話しできることは大切なことだ」と笑みを浮かべた。

 そして、この来日で特に熱心だったのが、車いすバスケットボールの取り組みだった。パラリンピック日本代表選手も所属する「埼玉ライオンズ」の練習に4度参加し、技術を学ぼうと一緒に汗を流した。競泳で2度のパラリンピック出場を果たしたフセイン選手の夢のもう一つが難民チームとして車いすバスケットでパラリンピックに出場することだ。これまでアスロス財団が開いた3度の合宿に総勢68人が参加した。東京パラリンピックに参加した難民パラ選手は6人。「難民選手団という旗印の下、国籍や宗教の違う人が同じチームで戦うことは世界に向けた平和のメッセージになる」。24年パリ大会では個人だけでなく、団体競技でも出場できるように奮闘していく覚悟だ。


VictorySportsNews編集部