60人分のサンドイッチからおもてなしのフルコース料理まで

 来る日も来る日もレッスンの日々。登校して1時間だけ授業に出て、またレッスンに戻り、午後から学校に行くなど不規則な通学も少なくなかった。学校生活の一大イベントである修学旅行や運動会も欠席が多く、放課後に友だちと過ごす時間もほとんどなかったそうだ。

 一方、橘バレエ学校では、茶道や華道、裁縫や料理などの教育も受けた。プロとして人として、バレエ以外の教養を身につけることも大切だ、という教育方針で、「料理については、ちょっとでも気を抜くと先生にわかってしまう」ほど、高い水準を求められたそうだ。
 こうして森下さんは、来客にふるまうフルコースの料理から、夏休みなどにレッスンを受けに来る子どもたち60名分の大量のサンドイッチまで、幅広いレパートリーを学ぶことになった。

「家では作ってもらったものをおいしくいただいていましたが、橘先生には料理も鍛えられました。料理もバレエも、きめ細かい心遣いが大切、教えていただいてとてもありがたかったです」

 上京後は、母の敏子さんが月1回の店の定休日を利用して広島からやって来てくれた。

「その時には私よりもまわりの人を気遣っていました。おいしいマドレーヌや、パウンドケーキなどを周りの人へのプレゼントに持ってきてくれたりもしました」

 夜行に乗って、東京に着くのは翌朝。しかし、その日の夜にはもう帰らねばならない。大変な強行軍だった。

 高校を卒業してひとり暮らしを始めた森下さんにとっては、もっぱら料理が息抜きになり、ガスコンロの上に置けるオーブンを買って、ローストビーフやグラタンなどの手料理を楽しむようになっていった。
「よく作ったのはスパゲッティミートソース。ソースを大量に作っておけば、数日間は食べられるので時間とお金の節約になります。里芋の煮っころがしやトマト風味の煮込みスープなど、栄養のことも考えつつ、作り置きできる料理をつくっていました」

ニューヨークで、生涯一度きりのアルバイト

 1969年、21歳の森下さんは渡米した。一度、海外のバレエの状況を見てみたいと思ったのだ。
 旅費は両親が工面してくれたが、現地の知り合いを紹介して欲しいと、広島に拠点をおく大手自動車メーカー、マツダ(当時:東洋工業)の松田恒次社長を訪ねた。

「ニューヨークで日本料理店を営んでいる方をご紹介いただき、そこで人生最初で最後のアルバイトをすることになりました。雪降る真冬のニューヨークで、朝3時に起きて地下鉄でお店に向かいました。たくさんの卵を割るなどの仕込み作業のお手伝いですが、日中レッスンが終わると、また夜アルバイトに行く。そこで賄い弁当をいただけたので、食費が随分助かりました」

 色々なバレエ団を回る中で、著名なバレエ団から主役での契約の誘いを受けることもあったという。しかし、森下さんは「ピンと来なかった」。そう感じてあっさり断ってしまう。これには周囲も驚き、口を出さないと決めた母親から「もったいなかったわね」と言われたと笑う。

 だが、森下さんの判断は間違っていなかった。渡米した翌年の1970年、松山バレエ団のバレエ公演「白毛女」(はくもうじょ)を観て、衝撃を受けたのだ。

「松山樹子さんが踊る白毛女の圧倒的な存在感に、魂がズシンとくるほど大きな感動を受けました。セットも衣装も質素なのですが、松山先生が白毛女になって最初に登場するシーン、そこに立っているだけなのに平和を掴むのだという意志、メッセージが伝わってきました。ぜひともこの方にバレエを教わりたい。そう強く思いました」

 一度は断られたものの、森下さんの熱意が届いて1971年に松山バレエ団へ入団。その年の訪中公演では、「白毛女」を踊る機会を得、松山樹子さんの指導を受けることができた。

〔森下洋子インタビュー vol. 4〕につづく


森下洋子
1948年、広島県生まれ。3歳でバレエを始め、1971年に松山バレエ団に入団。1974年第12回ヴァルナ国際コンクールに出場し、金賞を受賞。以後、世界各国に活躍の場を広げ、2001年に舞踊歴50年を迎え、松山バレエ団団長に就任。1997年、女性最年少の文化功労者として顕彰される。2002年、芸術院会員に就任。バレエ歴70年を超え、第一線で活躍中。近著に『平和と美の使者として 森下洋子自伝』(中央公論新社)がある。2023年12月2日より松山バレエ団75周年記念公演『くるみ割り人形』開催。詳細は下記HPから。

松山バレエ団

VictorySportsNews編集部